Aipril

4月

10日  16日  26日   27日
 

27日 嵐の夜
 
ディナーが終わった後は、いつも私がマイクとリンダと自分のためにコーヒーを作るのが習慣になっていた。だけど、今夜はマイクもリンダもディナーが終わったばかりだというのにバタバタしている。

「これからマイクのお母さんのところへ行くから、今夜はコーヒーはいらないわ。」

とリンダが言う。どうやらマイクのお母さんが気分が良くないらしく、二人で彼女を落ち着かせ行くらしい。しばらくした後、嵐の中へと彼らの車のライトが消えていった。リビングではマーク(真中の息子)がテレビを見ている。末の息子はお友達と電話でお話中だ。さて、私はHPの更新にでも勤しもうかな。

私が執筆(?)に熱中している最中だった。 ピンポーン♪ 玄関の呼び鈴がなる。時計を見る午後10時。気がつくとテレビはついているが、マークはいない。末の息子グラハムはまだ電話中のようだった。いろんな人がこの家を訪ねてくるけれど、ここで呼び鈴を聞いたのは、これで二度目だ。一度目は”ものみの塔”の勧誘の時で、二度目が今夜。知り合いだったら、まず呼び鈴は押さずにいきなり家の中まで入ってくるはずだ。...アヤシイ。ドアを開けたとたんに銃を突きつけられたりしたら...。でもまさかね、なんて考えながら、ドアを開ける。つきっぱなしになった車のランプの前に見知らぬ人が立っていた。逆光で顔がよく見えない。

あなたのお家の牛が逃げてますよ

は?うし?一瞬、冗談かなと思ったけど、こんな夜遅くの嵐の中、冗談を言いに来る人がいるわけないか。
うーん、この嵐の中、牛が逃げている?どうしよう、マイクもリンダもいないよ。

あれ、このお家でいいんですよね?

ああ、私が日本人だから不安になったのか。そう、いいんだけどさ。今はマイクもリンダもいないんだよ。でも、息子達ならいるよ。ちょっと待ってて、すぐに呼んでくるから。電話を途中で切り上げたグラハムが何事かと部屋から出てきた。「牛が逃げちゃったんだって。ちょっと話を聞いてみて。」というとグラハムが外にすっとんでいった。

私はこれから何が起こるのかを二階の窓からじっくりと観察することにした。

すると、2台の車のライトが一番遠い牧場まで走って行くのが見えた。しばらくした後、2台ともこちらに戻ってきた。そして、一台は私達の家をとり過ぎて行って、グラハムの車はガレージに戻ってきてしまった。どうやら尋ねてきた人は隣人の一人で、状況だけ知らせて帰ってしまったようだ。グラハムはといえば、農場用バイクに乗り換えて、再び牧場へとすっ飛んで行った。遠くの方でグラハムの乗るバイクが行ったり来たりしている。と思ったら、グラハムはメイン道路まで走って行ってしまった。彼の乗るバイクのライトが遠くのほうまで走って行くのが見える。まさか、あんな先まで牛が行ってしまったのか?

牛を探しに行ったな。

いつの間にかシャワーから上がったマークがつぶやいた。ふーん、何頭いるの?と聞くと、「知らない」と笑って答えていた。

一方、マイクとリンダはその頃家路に着いている真っ最中だった。二人が車を走らせていると、一頭の牛が道路の脇を逆走していくのが見えた。

「あらやだ。危ないわねぇ。どこかの牛が逃げてるわよ。」

しかし、また一頭、そして更に一頭、牛がどんどん暗闇の道を盲滅法に逆走していく。

「おい、待てよ。あれは俺達の牛じゃないか?」

マイクたちが所有する牛は黒と白の柄で、顔だけは白一色という特色を持っている。確かに、今 乱走しているのはまさに白い顔を持つ牛たちだった。マイクたちは乗用車で道路をふさぎ(危ない)、牛たちを食い止め、元来た道へと帰させるべく地道に牛たちを追い込んで行った。そこにグラハムの乗るバイクが登場したわけだ。

マイクたちが牛と出会ったのは、家からゆうに3kmは離れている地点。そのまま気がつかなかったら、牛たちはKamoという町まで走って行っていたかもしれない。そしたら、町の新聞に載ってただろうな。

マイクたちとグラハムは乗用車とバイクをうまく利用して、牛たちを牧場まで誘導していった。嵐で地面がぬかるんで、牛達がフェンスをやすやすと押し倒すことが出来てしまったらしい。

しばらくの間、窓から見える景色は暗闇だけだった。グラハムのライトも遠くに行きすぎて見えない。しかし、辛抱強く眺めていると、おっ、バイクの灯りが遠くからやってくるぞ。まて、車のライトも見えるぞ。おー、マイクたちが帰ってきたんだ。車のライトがバックしたり、ターンしたりしている。バイクが牧場と砂利道を行ったり来たりしている。暗闇の中でかすかに牛の群れが見えた。おー、ちゃんと捕獲できたんだーーー。

闘争約一時間。疲労困憊した上にぐっしょりと濡れきったグラハムが戻ってきた。マイクとリンダも笑いながら戻ってきた。

「彼らったら、Kamoの町まで行ってビールでも飲むつもりだったのかしらー♪

などとリンダは楽しそうに冗談を言っていた。疲れきっていたグラハムには悪いけど、NZらしさを満喫した一夜だった。

(つづく) 

26日 旅人と友情
 
 

キュートな台湾ボーイ アイバンは家族の都合でニュージーランドに移民してきた子だった。彼がここへ生活の土台を変えたのは、彼が若干17歳のときだった。

新しい生活になじむことも出来ず、新しい友達が出来るわけでもない。遠くにある学校に通うために一人暮しを始め、更に孤独感は募っていった。テレビもない、ラジオもない、尋ねてくれる友達もいない。学校からまっすぐ帰っては、眠るまで椅子の上にひざを抱えて座るだけの毎日。中国や台湾では盛大に祝う旧正月のときも、家族のご馳走もなく、ただ海まで釣りに行って隣に立っていたマオリの人と2-3言葉を交わすだけだった。

地元の仲間達から去る前日は、夜明けまで一緒に遊んだのだそうだ。一生の友情を約束して。しかし、そんな仲間達も日々を追うごとに連絡も途絶えがちになり、こちらから連絡をしても話が盛り上がらなくなってきてしまった。地元に戻って仲間達と再会しても、既に内輪ジョークに入っていけず、お互いが完全に別々の道を歩み始めてしまっていることを思い知らされた。

「せっかく友達になったって、そうやってみんな裏切っていくんだ。」

彼はやっぱり椅子の上にひざを抱えて座りながら、そうつぶやいた。でもさ、今はこうやって私とか他の友達も遊びに来るようになったし、前とは違うでしょう?

「学校の子達は、ただのクラスメイトだよ。友達なんかじゃない。」

彼はきっぱりと言い切った。

「Norikoは旅人だもの。ただ僕を通り過ぎていくだけだよ。」

そして彼は言葉を続けた。

「僕は気にならないよ。友達は去っていくものだから。」

若干19歳(もうすぐ20歳)でそんな諦めを抱いてしまっていることが、私をすごく切ない気持ちにさせた。彼はひざに顔をうずめて泣いていた。おーし、これからもずっと友達でいたろうじゃないか。他の人とは違うってことを思い知らせてやるー。そのとき、私は心に誓った。

別の日に、ハンサムな香港ボーイ、ピーター。そしてその彼女(ミス香港第2位かわいい)のキャット、アイバン、私、というメンバーでアイバンのフラットに集まって、まったりと飲んでいるときだった。やはりピーターも家族の都合で8年前にニュージーランドへ移民してきた人で、話題はなんとなくピーターの移民経験の話になっていった。彼がNZに移民したとき、彼は16歳、妹は14歳。都合で両親よりも先にNZでの生活を始めることになった彼らは、当時この土地では数少ないアジア人として珍しい存在となった。高校ではピーターが唯一の中国人。アジア人を珍しがる同級生からの嫌がらせ、わからない英語での生活、授業。妹も同じく嫌がらせに合い、時には顔にパイを投げつけられることもあったとか。

そんな彼もドライに言い放った。

「もう友達なんかには期待していないよ。いくら仲良くなったって、距離が開いてしまえばただの知り合いさ。」

そして、アイバンがこう加えた。

「Norikoにはこの気持ちはわからないよ。だってNorikoは旅人だもの。」

旅人は孤独なのだなぁ、とやるせなく感じた一瞬だった。そういえば、ムーミンに出てくるスナフキンは孤独を好んでいたっけ。彼らと私の間に、どうしても超えられない一線を感じてしまった。それでも、私は決して友達であることを諦めないでいこうと再び心に誓った。いつか彼らも私のことを本当の友達として認めてくれる日が来るに違いないもの。

そして、昨日。
出先でちょっと哀しいことがあって、笑えなくなってしまった。このままお家に帰れば、いつもと違う私を見て、ホストファミリーがひどく心配するに違いない。こんな暗い顔してお家には帰れないな。バックミラーに自分の顔を写す。作り笑いも出来ないや。どこかで時間をつぶして帰ろう。とは言うものの、ここはニュージーランドのWhangarei。夜の8時過ぎにそんな気の利いた場所があるはずがない。どこかで駐車していたら、それはそれで危険でもある。頭の中で日本人フラットが頭を過る。あそこへは行きたくないな。彼らにこんな顔を見られたくなかった。車を道の脇に停車して、なんとなくぼんやりとしていると、突然スコールのような雨が降ってきた。そういえば、以前にアイバンが言っていたっけ。

「日本のドラマは哀しいシーンになると、絶対に雨が降るんだよね。それで哀しい音楽が流れるんだ。」

まさに今がそんな感じじゃない?雨とステレオから流れるJewelの切ない歌声。
そうだ。アイバンの家に行こう。もしかしたら、もう寝ちゃってるかもしれないし、もしかしたらピーター達が遊びに来ているかもしれない。すぐにスタンドに車を停めて公衆電話から彼の携帯電話に電話をする。

「あー、Noriko!どうしたのー?」

今どこにいるの?ときくと「ピーターの家でエッセイを書くのを手伝ってもらってるんだ。」とのこと。予想と違った展開に、言葉を失ってしまった。そうかー、ピーターの家かぁー。じゃあどうしようかなぁー...。

たぶん、私はいつもと違っていたのかもしれない。アイバンの声色がちょっと変わった。

「何かあったの?今どこにいるの?え、スタンド?どこのスタンド?何があったの?ピーター!Norikoがへんだ。Noriko?これからすぐにそっちに行くから、そこで待ってるんだよ。車の中で待ってるんだよ。OK?」

いいよ、いいよと断る私の言葉を無視して、電話を切ってしまった。彼らに迷惑をかけるつもりはなかったのに。しばらくすると、ピーターの車のマフラーの音が聞こえた。キーッ。車が私の真横に停まる。同時に3人のアジア人が飛び出てきた。「Noriko?どうしたの?」と私の車のドアを開ける。スタンドのおばさんがすっ飛んで来て、「こんなところに車を停めないでよ!」と文句を言いに来る。「すぐどけるよ」とピーターが言うと、おばさんは事情を察したのか、軽く頷いて立ち去った。アイバンがしゃがんで「どうしたの?」と聞いてくる。キャットが心配そうに私の顔を覗き込む。別に大したことじゃないんだ。ただちょっと、誰かと話がしたかっただけ。ごめん。こんなふうに大事にするつもりじゃなかったんだ。ごめん。ほんと、大したことじゃないんだ。ごめん。

ごめんと繰り返す私に、

ごめんって言うな!

とアイバンが言う。「とにかく僕のフラットに行こう。」ああ、そんなにしてくれなくったってよかったのに。みんなの邪魔なんかしてまで、慰めてもらうようなことじゃないんだよ。ホント、自分でなんとかしなくちゃいけなかったんだよ。ただ、もしかしてみんなが暇だったのだったら、一緒にいさせてもらおうと思ったんだよ。本当に申しわけなくて、いいわけを繰り返す私に、

「気にしなくたっていいんだよ。僕達は友達だろ?助け合わなくちゃ!」

そんなことを言ってくれちゃったら、思わずホロリと来てしまうじゃないか。ピーターが言う。

「そうだよ。僕達は家族みたいなもんだろ?さっきだって、ちょうどNorikoに電話しようとしていたところにNorikoから電話がかかってきたんだ。」

FriendとかFamilyとか、そんな単語攻めに涙を我慢しすぎて頭痛までしてきてしまった。フラットで、アイバンが熱い中国茶を出してくれた。みんなが私の言葉を待ってる。「大したことじゃなかったんだよ。ごめんね。」そういう私に、ごめんって言うな、何があったんだ、とアイバンが腹を立てる。そんなアイバンをピーターが制して、何も聞くなという合図をする。

みんなで熱い中国茶を飲みながら、ピーターが静かに言う。「時々、落ち込むことってあるよね。みんなそうだよ。でも、そんなとき友達が励ますものだろ?俺らは友達だろ?だからNorikoは謝らなくてもいいんだ。」

再び激しい雨が降り始めた。しばらく楽しくお喋りをしたあと、気分も最悪の状態から抜け出したし、そろそろお家に帰ることにした。

「運転、気をつけろよ。」

ピーターが右手を軽く挙げる。そして、私達はフラットの駐車場で別れた。それから私は切ないJewe声を再び聴きながら、家路についた。雨で濡れた牧場の間の道を運転しながら、しばらくもの思いにふけってしまった。

Whangareiでの生活、約2ヶ月。こんな絆にようやく気がついた夜だった。

(つづく) 

16日 ワインディングで背筋が凍る
 

さー、今日は町まで行ってアートレッスンを受けるぞー。その後、海まで釣りに行くんだーーー。

雨が上がったばかりの空に虹がかかっている。
愛車のプレリュードのエンジンをふかす。この車は、ふかさないと元気が出ない。家の前の砂利道を下り、大きな虹を尻目に軽快な速度でストリートを走る。牧場と牛と虹。制作したばかりの女性シンガー版カセットテープをかける。この車のステレオったらそりゃあひどいもので、音楽をかけるとカセットの回る音がキュルキュル聞こえるし、どんなに最高のステレオで録音したとしても最低の音質に下がってしまう。それでもそんなところがかわいく感じちゃうし、既に私はこの車を愛し始めてもていた。

もうそろそろあの急なコーナリングだ。
私は以前、某ハイラックスサーフなる車を所有していたのだが、プレリュードはサーフと違ってグリップがきくし、ステアリングの感覚もぜんぜん違う。私はこの車を購入してから、日々コツコツとこの車の限界をこのコーナリングで調査していた。
よーし行くぞ。今日は前回よりちょっとだけスピードを上げてみようかな。ハンドルを握る手に力が入る。

その瞬間だった。

曲がるはずの車が曲がりきれず大きなカーブで道を外れる。道路の脇はダート、しかも深い溝になっていて、このスピードでハマると車が横転する恐れがある。しかも、道の脇にはポールが立っている。運転席側にこれが当たると、車の損傷次第では私が怪我をするかもしれない。いや、車の損傷は出来るだけ少なくしなくては!だって、車がなくちゃ旅が出来ない生活が出来ない!!

などということが、瞬く間に頭の中をめぐった後、うまい具合に車が止まった。ふぅ、止まった。エンストもしなかった。安心するのはまだ早い。ギアをNに入れ、サイドブレイキを入れ、車を飛び降りる。フロントは大丈夫か!?倒れたはずのポールを見る。あれ?立ってる。なんだ、ビヨヨンポールだったのか。どおりでショックがなかったわけだ。いったい何が起こったんだ?私の運転ミス?フロントを見る。なんと無傷。私のプレリュードは美顔を保っていた。ああ、神様仏様、どうもありがとう。しかし...。あああああー!!フロントの左のタイヤがパンクしてる!!だ、だから急に曲がれなくなったんだー。だからか、だからか...という言葉が頭の中をグルグルする。タイヤのパンク。しかも、見渡す限り牧場しかないところで。果てしなく広がる牧場を眺める。ケッ。牛が草なんか食っていやがる。車から女性歌手の声がひどい音質で流れてくる。呆然と牛を眺めて、何を始めたらいいのと自分に問い掛ける。

前にホストファザーのマイクがジャッキのことを言っていたなー。なんかが足りないとか言ってたんだよな。それと学校のクラスメイトのネットががタイヤの交換について細かく教えてくれたこともあったっけ。しかし。パンクしたタイヤを目の前に、今の私はタイヤ交換の"タ"の字のHow To も思い出せない。どうしたらいいの、これ。

すると、赤いピックアップにガラクタをいっぱい乗せた車がやってきて、にわかにスピードを落とした。「何か困ったことが起こったのかな?」窓から白髪頭のおじいんさんが私に話しかけた。イェース!困ってる!困ってるよ!!すごく困ってたんだ、私!!!おじいさんにパンクのことを告げると、「おっけー。手伝ってやるよ。」と私の車の前に車を止めた。私は車のエンジンを切り、すかさずハザードをつける

「ジャッキはあるかな?トランクを開けてごらん。」言われるがままにトランクを開ける。おじいさんが秘密の扉からやすやすとジャッキを取り出し、「ん?ハンドルがないな。」とつぶやいた。そうか、ジャッキアップするために必要な、あのハンドルがなかったんだっけ。「この車の中のどこかに必ずあるはずなんだけどなぁ。」 うーん、私もそう思うけど、どこにあるか検討もつかないよー。

おじいさんが自分の車から工具を持ってきて、道路に寝転がった。おー、なんか修理をしますって感じだー。おじいさんがコツコツとジャッキをあげていく。私はそばでおじいさんをじっと見守りながら、タイヤ交換の仕方を思い出し始めていた。まさか、このような出来事が私に起こるなんてなぁ...とぼんやり考えているそばで、車高がどんどん上がっていく。ふと、おじいさんの手が止まった。あれ、と思ったら、おじいさんが胸に手を当ててはぁはぁ息を切らせている。ああ、こんなところで人様に迷惑をかけた上に、この人を病気になんかさせたら、いったい私はどうしたらいいの。おじいさんが右手を挙げて「だいじょうぶ」といった。ああ、本当に?おじいさんと私は手を合わせて、ゆっくりとタイヤを交換していった。

スペアタイヤはダサかった

町に行こうと思ったけど、これはいったんお家に帰って、マイクにいろいろとアドバイスを受けたほうがいいかもしれない。おじいさんとしばらく世間話をした後、おじいさんがそろそろ行かなくちゃと言った。「あ、せめてお名前を...」というと「名乗るほどの者でもない」などと言った直後に「デニスです」と名乗っていた。いつか旅先でお礼の絵葉書でも送ろうと思って、住所も聞いた。おじいさんは片手を挙げてさよならといった。そして最後に、「君が困ったときはいつでも俺が飛んでいくよ」と言葉を付け加え、ウィンクをして去っていった。

おじじ、カッコ良すぎるぜーーー。

(つづく) 

10日  牛の屠殺に思うこと
 

「よし、決めた!4月10日に牛をやるぞ!どうだい、Noriko?」
ホストファーザーのマイクがカレンダーにボールペンを突き刺し、振り返った。おーいえー、牧場の牛を一頭殺すんだったっけね。食用のために。

一頭で1年分!すごいだろう。」

そうかぁー、1年分の牛肉かー。それはすごいなぁ。レバーとか頭とか足とかも食べちゃうわけ?するとマイクは顔を曇らせ、「ノー」と言った。内臓や頭、足などはすべて捨ててしまうのだそうだ。ただ、近所の人が欲しがれば、レバーや心臓はあげてしまうらしい。

それからマイクの牛講義が始まった。なんでも、牛は屠殺場には連れて行かず、牧場で殺して解体するとのこと。プロのブッチャーがクレーンのついたトラックで牧場までやってくるのだ。殺される牛は何も知らない。ただ、腸をきれいにする必要があるので、殺される何日か前から餌は与えられていない。銃を持った人間がやってきても、牛は何も気がつかない。「モ?」と振り返った瞬間に、眉間にバスッと一発銃で撃ち込まれて即死、というわけだ。牛は何も知らないまま、その心臓が止まる。その後、ブッチャーが皮を剥いで、内臓を取り去り、体を6つほどに切り分けた後、トラックでブッチャーの冷蔵庫まで運ぶ。10日ほど経った後、更に細かい部位に切り分けて、家族のためのステーキになるという寸法だ。

「牛は屠殺場に連れて行かないほうがいいんだ。屠殺場に連れて行くときに、牛が怖がってしまって肉が硬くなってしまうから。」

なるほどね。緊張感や恐怖感を感じているときに脳から分泌されるホルモンのことを考え、生き物の体は不思議だなぁ、などとつくづく思う。牛は不思議な生き物だ。人間が歓迎するような味のミルクやその体の部位。しかも、栄養価が高く、我々の成長を施してくれる。そして、牧場の牛は、ミルクがたくさん出る牛、濃厚なミルクが取れる牛、食用肉として最適な牛、とさまざまだ。それぞれ種類が違うのだが、当然どこかで人間の技術が加えられているのだろうと思いきや。

「いや、ミルクがたくさん取れる牛は最初からミルクがたくさん取れてきたし、牛肉用の牛は最初から牛肉がたくさん取れていたよ。もちろん、質を高める技術は加えられたかもしれないけど、彼らは最初からそのように存在していたんだ。」

という。牧場の牛は人を怖がらない。人間は牛にたくさん草が生えているフィールドを提供してあげる。彼らは子孫を残せるし、生きている間の安全は守られている。つまり、人間と牛とはいい関係が保たれているんじゃないか?まるで犬と人間の関係のように。世の中の存在に意味のないものはない、と考えてみると、牛の存在はとても不思議に思えてしまう。まさか神様は人間のために牛を作ったわけではなかろうに、でも、ここの牛はまるで人のために存在しているかのようだ。

当日の朝、わくわくしている私に末の息子が「もうすぐ出かけるよ。」と言った。リンダとマイクは今日は仕事で、末の息子が私を牧場まで連れていってくれるのだ。彼のピックアップトラックに乗って、牧場の間の砂利道をすべるように走っていく。今日は天気もいいし、遠くのパドックまで見渡せる。ああ、平和だなぁ

現場まで到着して、ふと前を見た。すると、小さなコンクリートの広場に大きな牛が横たわっていた。首もとからドクドクと赤い血が流れ出している。「あー、もう撃っちゃったの?」息子が残念そうに言う。牛の眉間に小さな穴が空いていた。銃で牛を殺したあと、ブッチャーはナイフですばやくのど元を切る。肉の新鮮さを保つために、体中の血を全部出してしまうのだ。牛は死んだ直後、筋肉が痙攣して足を動かしたりする。私が牛のそばまで行くと、まるで夢の中でパドックを歩いているかのように4本の足が宙を掻いた。

おびただしい血がコンクリートの上を流れていく。ブッチャーが牛の足をもぐ。メキメキメキッと痛そうな音がする。今度はのどを切り開いて舌を取り出す。ピチャピチャッとホラー映画のような音がする。次は皮を剥ぐ作業だ。ブッチャーが鮮やかなテクニックでナイフと手で皮を剥いでいく。瞬く間に牛は皮を剥がされて、巨大な牛肉に変貌してしまった!男2人がかりで、牛をクレーンでつるす。今度は内臓を取り出す番だ。私は牛の背中から見ていたので、お腹側で何が行われているのかは見えなかったけど、しばらくしたら、ヌルリーッボットン!と内臓の塊がすべり落ちてきた。楕円系に大きくはちきれそうに膨らんだ巨大な胃!ナイフで傷をつけてしまったのか、穴が空いていた。のぞいてみたら、緑色の半分消化された草が見えた。匂いは既にうんちみたいな匂いだった。そうか、消化されるとすぐにうんちみたいになっちゃうんだな。しかし、草だけで肉をたっぷりつけたり、ミルクがたくさん出たり...不思議な動物だ。他にも心臓や肝臓や腎臓が次々と解体されていく。牛の腎臓は奇跡だ。丸いこぶし大くらいのものがいくつもいくつも連なっているのだ。シチューにすると美味しいそうだ。

空っぽになったお腹を見てみる。あばら骨が見えて、いよいよ牛肉感が迫ってくる

ブッチャーがチェンソーを取り出した。以前、アメリカでチェンソーショーというのを見たことがあるのだけど、チェンソーで木を切ると木屑がすごい勢いで舞うのだよねー。ということは...。ブッチャーが逆さ釣りされた牛の股から背骨に沿ってチェンソーを下ろしていく。私はすぐに牛の横に移動した。おー、すごいよ、すごい。牛の脂肪がすごい勢いで空にめがけて散っている!すごいなぁ!細かい脂肪が宙に吹き飛ばされていく光景なんか、そう滅多に見れるものではないよ。

牛が二つの体に解体された。
その後それぞれを3つに切り分け、ブッチャーがトラックに積み込んだ。この後、大きな冷蔵庫で一週間〜10日、寝かせるらしい。残された内臓は、別のトラックの積荷に運ばれ、どこかへ捨ててしまう。ふーん、いろんな国の人が牛を食用家畜にしているけれど、牛の内臓も含めてすっかり食べてしまう人達もいれば、このように肉だけ取って後は捨ててしまう人たちもいるのねぇ。捨ててしまうよりも全部食べてあげたほうが、牛冥利に尽きるんじゃないかなー、などと思った。

帰り道、息子のピックアップトラックに揺られながら、"素朴で豊かな生活"について感慨にふけってしまった。

(つづく)


 

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