October in U.S.A.(前編)

10月(前編)

1日  1日'  1日''  2日  3日  4日  5日  6日  6日'  7日  8日  9日 中編へ(10日以降)

 
9日 万歳安全運転
 
私は車の運転が好きだ。
特に、安全運転が好きだ。安全運転というものは、一に確認、二に確認、三四も全部確認だと思っている。運転技術に気を取られて、確認がおろそかになってはいけないし、景色を眺めすぎて確認が疎かになってもいけない。そして、五番目に来るのが危険予測だ。ようは、確認と危険予測がばっちり出来ているのが、安全運転ということだ。制限速度は、守ることよりも流れに乗ることを重視する。単独で走るときには、うっかり速度を出し過ぎないように注意する。このことが功を奏じてか、私は未だにこちらのおまわりさんには捕まっていない。

ミネアポリス(Minneapolis)付近の高速道路は、今まで私が旅したアメリカの中でも一番柄の悪い交通事情であった。蛇の交尾のように入り組んだ高速道路を、我先にと走り抜いていく車達。十分に流れに乗っていたとしても、後ろからパッシングする車、クラクションを鳴らしてあおる車が尽きない。バックミラーには、決まっておっかない顔をした運転手が映っている。この街の人は、何をそんなに急いでいるんだろう。

そういえば、メリーアンがミネアポリスの交通のことを、クレイジーって言っていたっけ。

「前にピーターとミネアポリスまで車で行った時は、どこを見ても似たような景色だし、高速道路は入り組んでいるし、迷ったらどこまでも止まれないし、本当に一生Wausauには帰れないと思ったわ。」

それほどひどくはないけれど、とにかく運転の乱暴さが目に付くなぁ。ニュージーランドのオークランドも、かなりひどい運転の車で溢れてたけど、忙しい都会ってみんなこんなもんなんだろうか。皆、どこか忙しない。いや、こう一言で片付けるのもなんだな。東京のように一色では語れないのがアメリカだ。鬼のようなスピードの車の横で、カメのようなスピードの車が走る。無秩序なまでにいろいろといるのがアメリカだ。現に、私を追い抜いていった花柄のワンピースを着たおばさんの車の次は、髭を剃りながら運転をしているでっぷりしたおじさんだもの。バラバラだよ、バラバラ。みんなバラバラ

私の真横を過ぎる無法者の運転を見て、アーカンソー州に入る手前の高速道路で、実に不愉快な追い越しをした車がいたのを思い出した。その車は最初、私の後ろの後ろについていた。私の後ろの車に不用意に近づき、あおって危険な追い越しを試みようとしていた。ちなみに、そのラインは適当に車がつまっていて、例えその車を追い越したとしてもその前には車が詰まっていて、とても気分爽快に走り去ることが出来るとは思えなかった。つまり、その追い越しには、意味がないということになる。

その車は私の背後にピタリとついた。これ以上の追い越しは諦めたかなとも思った。しかし、その車は、あろうことか私の車まであおり出したのだ。この命知らずめ。その車が、隙をついて私の前に割り込んだ。しかし、私はこみ上げる感情をぐっと抑えた。その車は私の前方を走っていた車にも、執拗にあおりかかっていた。そして、ついにその前方の車を追い越した時だった。

カチーン!

私の中で怒りの鈴(りん)が音鮮やかに鳴り響いた。もう、許せん!お仕置きをしてやる!!
もう誰も私を止めることは出来なかった。2つだった車線が4つに増えて、車間にだいぶゆとりが出てきた。前方に車のいない車線を狙って、その車が追い越し車線に踊り出た。待っていました、あなたを追いかけるチャンスを。私もその車同様に追い越し車線に踊り出た。その車はぶっち切りの速度で走っていった。私だって負けてはいられない。お仕置きを与えるまでは、私も度肝を抜く速度で追いかけてやる!言っておくが、私の愛車はたったの1,800ccのエンジンである。相手は、走ることには長けていそうな、ゴキブリ時代のCRXを彷彿させる黒くて丸い車。速い。

相手は、私の行動にまだ気がついていなかった。私は通常通りの車間を開けつつ、ピタリとくっついた。相手の心理を読み取り、彼がウィンカーを出すのとまったく同じタイミングでこちらもウィンカーを出し、車線変更をする。不気味なくらいに同じ行動をする車。そろそろ、彼が私の存在に気がついたようだった。スピードが一層増し、私から離れようとする。そうは問屋が卸さなかった。執拗に同じ車間、同じ行動で彼に追いついて行く。相手はさぞかし不気味に感じたことであろう。しかし、相手のスピードに私のハニー三世が息切れしているのがわかる。我慢よ、ハニー。正義の味方は負けちゃダメ(← いつから正義の味方になったんだーっ!?)

突然、諦めたかのように彼の速度が落ちた。そして、追い越し車線から退いた。そのテールからは、「負けたよ、お前さんにはさ...」という言葉が読み取れた。勝った。私は勝ったのだ。(ねぇ、何に?)

私は彼の真横に車をつけ、心の中で一睨みした気分になると、そのまま彼を追い抜き、走り去った。通りすぎるとき、やつが私の方を見るのが横目に見えた。ふふふ、女性ドライバーに(それもこんなちっちゃいやつに)、更に言わせてもらえば、自分のよりもずっと小さなエンジンを載せたこの非力なマーキュリーに敗北したことを恥じるがいい。ははははー。

あの時は、はたと我に返っておまわりさんが近くにいなくてよかったーって思ったんだった。そう、いくら確認と危険予測が出来ていても、自分をコントロール出来ない運転は恐ろしいです。良い子は絶対に真似をしないで下さい。

私は、この荒くれたミネアポリスの高速道路を、努めて平静に運転するよう心がけた。ミネアポリス付近の高速道路の進入ロには、信号が取りつけられている。この信号で、高速道路内の車の数を制限しているのだ。つまり、この辺は車が多いということを意味していた。私は高速道路を降りて街に行くのを考えると、少し憂鬱になった。

今夜の宿泊先は、イーガン(Eagan)という田舎町にあった。今日は、ミネアポリスの中心地にはいかず、イーガンをうろつくことにしよう。何もないところだと思うけど。

私はイーガンへ続く一般道路へと降りた。イーガンは、閑静な新興住宅地といったところだった。ただ、アーバインのように無機質なマンションが建ち並ぶことはなかった。まだまだ空き地が多く、低層アパートメントには、茂る木々が陰を作っていた。道路沿いにも緑が多い。とはいえ、木々は既に秋の装いに身を包んでいる。

何周かイーガンの街を回った。おかしい。住所近辺を走っているはずなのに、ぜんぜん宿泊先が見つからない。おかしい。一体、デンマークアベニューはどこにあるんだろうか。宿付近と思われるところは、住宅街だった。私は車を降りて、少し歩いた。数軒先で、おじさんが汗をかきながら車のワックスがけをしていた。すみません、ちょっとお尋ねしてもいいですか?

「やぁ、こんにちわ。」

おじさんは額に汗をかいていた。今日は風は強いけど、暖かい陽気だった。

あの、デンマークアベニュー沿いにある宿を探しているんですが、どうやって行ったらいいか、ご存知ですか?

「デンマークアベニュー?うぅーん、これはたぶん、もっと向こうのほうじゃないかなぁ。近くにスーパーマーケットがあるんだけど、その裏手にある通りの名前が、これだったと思うよ。確か、そこに宿があったような気がする。」

おじさんのアドバイスは、実にいいかげんだったが、一生懸命その場所を思い出してくれていた。ありがとう、おじさん。その辺りを探してみます。お忙しいところを失礼しました。

「いいんだよ。じゃあ、気をつけて。」

おじさんはにっこり笑うと、再びワックスがけに専念し始めた。
うん、むやみに警戒しないところあたりが、いかにもアメリカ北部の田舎町って気がするなぁ。田舎の人っていいな。へんに情報かぶれしていないところがいいんだ。素朴で、心に変化球を投げることがない。投げる球はいつだって直球だ。

おじさんの言うとおりの場所に宿はあった。すごい、おじさん、おじさんの記憶は確かだったよ!作りかけの道路に、アスファルトも真新しいところを見ると、どうやらこの辺りは開発されたばかりのようだった。

私は、車を停めてトランクから荷物を取り出すときに、ふと周囲を見やった。辺りは何もなかった。本当に空き地ばっかし。道路を照らす燈火が、逢魔が時の闇に輝き始めていた。殺風景な景色にオレンジ色の灯りというコントラストが、久しぶりに私をノスタルジックな思いにさせた。東京の湾岸道路、横浜の第三京浜、厚木へ向かう東名高速道路。

あのオレンジ色の灯りが並んでいるのを見ると、どうしようもなく遠くへ行きたくなったもんだった。そして今、私は遠い見知らぬ町の景色を眺めていた。どこへ行っても、私は私で、風は季節ごとの匂いを持っていた。

私はトランクを閉めると、スーツケースを引きずりながら宿へ入った。

(つづく)



8日 エンド アンド スタート
 
私は、誰もいないショーンのお家の玄関のドアを閉めた。鍵がちゃんとかかっているか、ノブを回して確認した。鍵のかかったノブは固くなって、びくともしなかった。もう、このお家には入れない。意思など持つはずもないお家なのに、なぜか突き放されたような気がした。外は小ぬか雨。この街を、また一人で出て行くんだ。

昨夜は、Minoquaから帰ってきてから、ショーンと街に出来たばかりという高級中華レストランへ出かけて、Wausauでの最後の晩餐を楽しんだ。私達はいろいろと話した。くだらない話をずいぶんした。思い出話もたくさんした。料理は美味しかったけれど、量が多すぎた。私達は、残ったおかずをドギーバッグに詰めてもらった。

朝、私はいつものようにパジャマ姿で、いってらっしゃいとショーンに言った。ショーンは、グッドラックと言葉を返した。それが、私達の、今回のさよならの仕方だった。ショーンは最後に、「お行儀良くするんだよ。」と付け加えた。

バン!と運転席のドアを閉めた。
昨日の中華料理の残りを助手席に置いた。
エンジンをかけた。

私の旅が、再び始まろうとしていた。

ショーンのお家には、背の高い木が何本が植えられている。前の秋には、二人でお腹がよじれるくらい大笑いしながら枯葉集めをしたっけ。ピーターが目を細めながら、それを見てたんだよな。「ちゃんと働け!」なんて言いながら。

私はもう一度、その木を車から見上げると、今度こそ本気でアクセルを踏んだ。
住宅街をゆっくり眺めながら運転する。建ち並ぶ住宅は、真新しくはないけれど美しい。オレンジ色のレンガのお家やピンク色に塗られた、イタリア調の高級住宅。玄関にはポーチがついていて、庭には大きな木が並んでいる。

ワイパー越しに見える住宅街が、ちょっと寂しかった。横断歩道を歩く人は、この街から出る予定もないのだろうけど、私は今、この街から出ようとしているんです。

かなり後ろ髪を引かれる思いで高速道路に乗った。細かく高速道路を乗り継がなくちゃいけなかったので、途中で何度も迷いそうにもなった。でも、もう走り出したんだ。私は、西へ向かい出した。

今日は、ミネソタ州(Minnesota)へ到着する予定だった。ミネソタには行ったことがないが、思い出深いエピソードがある。かなり前だが、会社の英会話教室の講師として、初級クラスを受け持っていた先生がミネソタ出身だったのだ。私は初級クラスではなかったけれど、同期数人が彼のクラスにいたこともあって、みんなと何度が飲みに行ったり食事をしに行ったりした。

当時の英会話講師といえば、六本木で日本人の女の子を目当てに遊んでいるような人が少なくなかった。彼もそのような人物の一人だった。そのうち、彼はどういう理由だか会社を首になり、バリ島へ旅立ってしまった

そんな彼だったが、一度ひじょうに感銘を受けさせてもらったことがある。
その日、私は友人とその英語講師とで食事に出かける予定だった。けれども、私と彼以外のみんなが突然のキャンセルをしたため、二人きりで食事ということになってしまった。彼は、鼻を膨らませて、「今夜は車で来たんだよ」と私に告げた。

私達は、ドライブをすることになった。そんな中で、私達は貧富の差について話し合った。

「日本には貧富の差なんてない。日本は実に平和な国だ。」

と私が言うと、彼が猛烈に反対してきた。当時、私は世間知らずで、本気で日本はみんな豊かだと信じていたのだ。

「そんなことはない。日本にだって貧富の差はある。今からその光景を見せてやる。」

と言って、彼は車を走らせた。しばらくすると、平屋の住宅地が建ち並ぶ景色が見えてきた。屋根はトタン。トイレと思われる部分からは、細い煙突が突き出ていた。こういう住宅地を知らないわけではなかった。ただ、意識はしていなかった

「君は一軒家なんだろう?今、君が見ているこれはなんだ?これはまだいい方だ。別のところには、もっとひどいのがいっぱいある。」

貧富の差は他の国に比べて、それほど激しくはないけれど、やはり貧しい人はいるということを思い知らされた。いや、どちらかというと、これが貧しい人達だったのか、と改めて認識したと言ったほうがいいだろうか。そこに住む人達は、自分となんら変わらないと思っていたのだ。自分の認識の甘さを恥じた。

よそからやってきた外国人に、日本の暗い部分を突き付けられる。自分の無知さを思い知らされ、私は恥ずかしかった。それからだろうか、もっと世間を知ろうと意識し始めたのは。

ミネソタへ向かう途中、ぼんやりとそんなことを思い出した。
雑誌で見る限り、彼の故郷はきれいだった。整然としていた。そんなところに住んでいたのだから、日本の長屋などを見て驚くのも仕方がない。やはり、彼はアメリカ人だったな、と笑いがもれた。あれからずいぶん年月が経った。私は、何度か転びながら今に至った。今の私は、あの頃の彼を越えただろうか。あの頃の彼よりも、もっと世の中が見えているだろうか。

遊んでいた英語講師だったけれど、ちゃんとした芯のある人だった。今頃、何をしているんだろう。彼の実家の住所を聞いておかなかったのが、返す返す悔やまれたが仕方がない。イタリア人系の一家で、よくパスタを料理していたと言っていたな。よし、彼の育ったミネソタ州というのを見てやろう。一体、どんな街なんだろう

私は一路、ミネアポリス(Mineaolis)へと続く高速道路へ乗り継いだ。

(つづく)



7日 糸の先に見えるもの
 
ショーンは新聞を広げながら、コーヒーを飲んでいた。私はと言えば、のろのろとコーヒーをすすりながら、出かける準備も済ませていなかった。

「大丈夫かい?ちゃんと一人で行かれるかい?」

ショーンは、新聞をたたみながら私を見た。

うん、行かれるよ。ここから1時間くらいのところでしょう?前にも2度、行ったことがあるし、一人でも大丈夫だよ。

「今夜、6時までには帰って来るんだよ。気をつけて。」

と言い残すと、ショーンはお仕事に出かけてしまった。

今日は、ミナクァ(Minocqua)という、北の別荘地まで繰り出す予定だった。Minoquaには、メリーアンとピーターの別荘がある。とても古くて小さな別荘だけど、居心地は最高のお家だ。そこは、メリーアンの生家でもある。

すっかり準備を整えて、私はショーンのお家の鍵を閉めた。
こんなふうにこのお家を出ることがあるなんて、以前は思いも寄らなかったことだ。

私の真っ赤なマーキュリーは、今度こそヒーターがちゃんと動くようになっていた。暖かい風が出てくるのに、改めて感動する。よし、これでもうあんなに寒い思いはしなくてすむぞ。私はアクセルを踏み、Minoquaを目指した。

Wausauの、とても喧騒とは呼べない人通りを抜けて、私はハイウェイに乗り込んだ。薄い青、高い雲、乾いた空に、黄色くぼんやりと色づいた木々たちのコントラストが、秋の装いを凝らしていた。Minoquaは別名、"浮島"と呼ばれるほど、湖の多い町だ。Minoquaが近づくにつれて、道路沿いは小さな湖や大きな湖が目に付いてくる。

『ようこそMinoquaへ!』という看板が見えてきた。この看板には、いっつもスプレーで落書きがしてある。来るたびに、その落書きの様子が変わっているのが面白い。というのも、この落書きは、毎年地元の高校生の卒業式の日に行われる、恒例のいたずらなのだ。あはは、今年も元気よくいたずら書きがされているよ。ようやく、Minoquaへ着いた!って感じがするな。

看板をくぐり抜けると、大きな湖が右手に見える。その道沿いをずっと走って、しばらくしたら左に曲がるんだ。あ、そうだ!いいこと考えた!せっかくのお招きなんだから、メリーアン達のためにお花を買っていこう。さわやかな季節が好きなメリーアンだから、花束にはブルーの小花をたくさんいれてもらおう。

私はくるくるとハンドルを切り、近所のスーパーへ向かった。
スーパーの花屋には、たくさんの鉢植えと切花が置いてあった。いっぱいありすぎて、どんな花がいいのかわからなくなってきてしまった。うんうん考えている私に、地元のおばさんが「いいのよ!ゆっくり考えれば!あははは!」と言って、通り過ぎて行く。そう、ゆっくり考えればいいんだけど、あんまし遅れるとメリーアン達が心配するからなぁ。

私はちょっと心を落ち着けて、しばらくメリーアンをイメージしてみた。そしたら、なんとなく具体的にどんな花束がいいかがわかってきた。花屋さんに、「やっと決まった」と伝えて、私の選んだ花を束にしてもらった。

思ったよりも時間を食ってしまった。よし、急ごう。

花束を丁寧に助手席に置くと、私は急いで車を走らせた。でも、最初に考えていた方向と違うところへ来てしまったので、ちょっと道に迷ってしまった。えーっと、ここを左に曲がればショートカットなんじゃないか?あれ?行き止まりだ。間違えた。方向転換っと。あ、信号だ。あれ、いっぱい信号がある。こんな大きな交差点なんか、別荘の途中にあったっけ?...戻ろう。

ぐるぐる迷った挙句、ようやく見覚えのある通りに出た。この通りは、道路沿いがずーっと森林になっていて、何もお店のない。森林は、オレンジ色が鮮やかだった。しかし、やはりなんとなくぼんやりした紅葉なんだよなー。前に来たときは、本当に鮮やか紅色だったのに。

見覚えのある角を右に曲がり、しばらくすると、小さな白い看板が出てきた。"ピーターとメリーアンのお家"と書いてある。うふふ、かわいい。

ピーターとメリーアンの別荘は、大きな牧場の向こうにある。茶色い、小さなお家がそれだ。車を降りる。カラーンラーンリーン、と石の風鈴が風に揺られて鳴っていた。ああ、この透明な音。この静けさ。私がここを大好きな理由の一つだ。とにかく、雑音がない。車の音も、鳥の声も、飛行機の音も。さわさわと、風に揺れる木の葉の音とカラーンという石の風鈴の音だけが、この世界にある音なのだ。シーンとした空気に、のんびりとした、ささやかな平和を感じることが出来る。

「non!よく来てくれたわ!」

メリーアンが出迎えてくれた。道に迷ったでしょう?と指摘される。うん、迷っちゃった。「よく一人で来られたわ!」と、メリーアンが嬉しそうに私の肩を抱いた。家に入ると、メリーアンは料理をしている最中のようだった。食卓に座っていたピーターが振り返る。

「ハイ!non!道に迷ったかい?」

うん、迷った...。な、なんで開口一番に、みんなそう言うんだよー!

「そうだと思ったよ!いや、一人で来られるなんて、たいしたもんだ。」

ピーターはウィンクして笑った。
私は花束を二人に渡した。青い小花と大きな黄色い花を大胆にまとめた花束を、二人はとっても喜んでくれた。よかった。気に入ってもらえたようで。

「さーさー、昼食はまだだろう?早く席に着いて。」

と、腰の悪いピーターが椅子を引いてくれる。ピーターもメリーアンも、Wausauのお家に居るときよりも、ずっと活き活きしているように見える。なんでだろう?やっぱり、自分の生まれた家って特別な何かがあるのかな。

昼食は、ローストビーフに、本物のグレイビーだった。
本来のグレイビーソースは、肉の脂に小麦粉を混ぜて作ったルーから出来る。ところが、近年の健康ブームから、現在のほとんどのグレイビーソースが、"グレイビーソースの素"という粉末から出来ている。それはそれで美味しいんだけど、やっぱり本物のグレイビーの方が数段美味しい。

私がローストビーフにグレイビーをかける。やっぱり、本物は色が違うなぁ。ソースがつやつやしているもの。

「もっと、もっとグレイビーをかけなさい。」

ピーターが私のローストビーフにどっちゃりとグレイビーをかける。うわー、ローストビーフがグレイビーの中に埋まってしまった。つづいて、ピーターはサラダのドレッシングにも気を配ってくれた。

「サラダにはこのトマトのドレッシングをかけるとうまい。」

他にもいろいろとドレッシングは出ていたけれど、ピーターのお勧めを頂くことにした。

ピーターもメリーアンも嬉しそうだ。彼らが嬉しいと、私も嬉しい。静かな部屋の中には温かい食事があり、外には風に揺れる石の風鈴の音がある。ああ、ここはなんて長閑なんだろう

食卓の隣には、小さなリビングルームがあり、その向こうにはガラスで囲まれたサンルームがある。そして、その向こうには、小さな湖があるのだ。湖は、風が作った細波でキラキラしていた。細波が出来ると、後ろでカラーンと石の風鈴の音がする。ああ、いつかここに住めたらいいな。こんな静かなところに。

驚くべきことに、この小さなお家は、ピーターの手作りだ。現役時代は大工だったピーター。コツコツと長い年月をかけて、小さなお家に手を入れてきた。昔はなかったサンルームや玄関のコテージ。今、ピーターは、杖なしでは歩けないけれど、昔は強くて逞しいお父さんだったんだ。私にとってピーターは、今でも大きくて強くて逞しいんだけれど。

食事が終わって、皿洗いが済むと、私達はカジノに繰り出した。この付近には、Native アメリカンインディアンの居住区があり、居住区内では賭け事が認められている。おまけに税金はかからない。

私達は、そこで泡銭を儲けたり、浪費したりしながら小一時間ほど遊んだ。うーん、結局私って、カジノでは時間とお金を無駄遣いしちゃうんだよなぁ。まったくもって、才能ナシ

私達は、軽く一杯飲みに行くことにした。

「滅多に行かれないバーよ!」

とメリーアンがウィンクする。なんでも、Native Americanが経営するバーだとか。
通常、Native Americanの経営するバーには、近所のNative Americanが集まり、白人は入れない。実際に入ることは出来ても、居心地悪く感じて、長居は出来ないはずだ。ところが、メリーアンやピーターは、臆することなくバーに入っていくではないか。バーのスツールに腰掛けると、歳を取ったNative Americanのバーテンが、「よー、何にする?」と親しげに注文を聞いてきた。

私達は、オールドファッションを注文した。もちろん、ブランデーベースの、である。他の客達も、メリーアンやピーターに軽い挨拶を交わし、何やらみんな親しげだ。もともと、Native Americanに近い見てくれの私には、みんな当然のように歓迎してくれる。

なんでも、ここの客の一人とメリーアンとの、奇妙な縁のおかげでこのバーに出入りが許されたとか。

「あそこにいる彼女のね、亡くなった親友と私が、顔も性格もまったくそっくりなんですって。」

と、メリーアンがこっそり教えてくれた。なるほど、そういう縁なのか。

バーは殺風景だった。コンクリートが剥き出しになった壁、床。窓から刺す柔らかい陽光に、埃が舞っているのが見えた。人々の笑い声、グラスにソーダを注ぐ音。新しい客が来るたびに、重たい木戸から眩しい西日が入ってくる。ああ、ここは時間の流れ方が違うよ。なんだか、ゆっくりしている気がする。

2杯ほど飲んだ後、私達はお家に戻ることにした。気がついたら、もう4時過ぎなんだもの。帰らないとショーンが心配する。

「気をつけて帰るのよ。」

と何回も念を押された。ありがとう、ピーター。ありがとう、メリーアン。また...、また来るね。それまで、絶対元気でいてね

私は、ピーター達の小さな家を背にした。バックミラーに、彼らのお家がどんどん小さくなっていく。永遠にいて欲しい、せめて私が、この世からいなくなるまでいて欲しい。そう思うのは、私のエゴだろうか。でも、彼らは私よりもずっと早くこの世に生まれた人達だ。彼らが、「じゃあね」というたび、本当に次に会えるかどうかが心配になる。

どんなに離れていても、そこにいるならそれでいい。太陽の昇る時間が違っていたって、そこに存在しているのならそれでいい。私のことなんて気に留めてくれていなくたって、それでいい。私も、あなたが今何をしているかなんて、ずっと考えつづけているわけじゃない。そこにいてくれればいい。姿が見えなくてもかまわない。この世にいるなら、それでいい。

世界中、どこを探しても見つからない、というのは哀しすぎる。私があなたを思い出しても、それを受け止める器がない。私を思い出してくれるかもしれない、あなたの心がどこにも存在しなくなる。そんなことは、哀しすぎる。私が八方に広げた糸の先の一部が途切れてしまう。そんなことは、辛すぎる。それは、我侭な気持ちなんだろうか。本当のさようならを恐れることは、自分のことだけを考えているエゴイストと同じだろうか。私はまだまだ未熟者だ。私は、恐れている。わかりきったことを、恐れている。

メリーアンは、癌を患っている。いついなくなるかわからない。
私は、バックミラーに映らなくなった、あの小さな家を、今回も心にきつく焼き付けた。

(つづく)



6日' にわか仕立てのレディ U
 
「あら!ショーンのステーキったら、やけに大きいじゃないの。」

隣に座っていたおばさんが、ショーンのステーキを指差した。
私は、そのおばさんに耳打ちをした。

「それはそうですよ。なんたって、彼は"プレジデント"(← 会長の意味の他に、大統領という意味がある)なんですから。」

まるで、昔からの知り合いのように、阿吽の呼吸で隣のおばさんとボケと突っ込みをやり合う。アメリカ人は必ず会話にウィットを求めてくるものだ。でも、この席では政治やシェイクスピアを知らないと笑えないような冗談は出てこない。シカゴ辺りで交わされる、相手を牽制しあうような会話じゃなくて、本当に和やかなディナーの会話だ。

無事にディナーが終了したときだった。

「新任会長及び役員の方々に、バッジを授与いたします。」

すると、ショーンやその他の役員に任命された人が、前のほうに集まった。と同時に、彼らのパートナーも前に集まり始めた。隣のおばさんが私を突ついた。

ほら!何してるの!早く行って、ショーンにバッジをつけてあげなさい。」

え?私?いいのかなぁ?

「あなたしかいないじゃないの!いってらっしゃい。」

ちょっと出遅れたような形で私が立ち上がると、周囲から拍手が湧いた。やっぱり...、かなり誤解されているようだ。

私はショーンのスーツの襟に、バッチをつけてあげた。ありがとう、とショーンが頬にキスをした。恥ずかしがり屋のショーンは、顔が真っ赤だ。やれやれ、人前に出てすっかり緊張しちゃってるようだ(笑)こんなんで、会長なんて出来るのかしら。

その後私達は、ビンゴーなどで盛り上がり、それが終わると再びバーに集まって談笑した。ショーンは、私のことなど放ったらかしで、他の人とのおしゃべりに忙しそうだ。しかし、私はやはり一人きりになることはなかった。さきほど、お話していた3人のトーマスさんの中で、一番人懐っこい雰囲気だったトーマスさんが、グラスを持って私の前に現れた。

トーマスさんは、波平スタイルの髪型にメガネ、そして鼻の下に口ひげを生やしていた。まるで、冗談みたいな風貌だ。しかもこのトーマスさんったら、実によくしゃべる、ひょうきんな人物で人を飽きさせない。

「ショーンとは、いつ出会ったの?」とか「どうやって出会ったの?」とか「本当にこんな寒い町へ、ショーンのために来たっていうのかい?」とか、いろいろと質問された。私は、ショーンとの昔話のエピソードなどを大雑把に話した。それでも、トーマスさんは「なんでこんな町に...」と首を傾げていた。あはは、本当に、Wausauは何もない町だものね。

トーマスさんは釣りが好きだという。それも、真冬の公魚釣りのようなスタイルの釣りが好きなんだって。でも、さすがアメリカ。凍った湖から釣れる魚は、30cmほどの大きさだとか。日本の公魚の話をすると、「そんな小さな魚を食べちゃうの!?」と、相当驚いていた。その場で天ぷらにすると美味しいんだよ、と教えてあげると、うぇっという顔をした。

「魚の内臓も食べちゃうの?」

うん、そうだよ。というと、「うげ!」と言って、顔をしかめた。それを見て、ショーンが日本にいた時にホームシックにかかって落ち込んだ話を思い出した。彼が落ち込んでるのを知った日本人の友人が、ショーンを居酒屋に誘ってくれたことがある。その時に出たつまみのひとつに、シシャモがあった。なんだろう、と思って食べてみると、中からたくさんの白い粒が出てきた。ショーンは内心、そうとうショックだったにも関わらず、僕を励まそうとしてくれてるんだ、と思って全部平らげたんだって言ってたっけ。そう、外国人って、魚の内臓とか卵とかって食べないんだよねぇ。美味しいのに。

トーマスさんは、いつか必ず私を真冬の釣りに連れて行くと豪語した。ありがとう、トーマスさん。いつか、必ず連れて行ってください。

宴も酣(たけなわ)であったが、我々はそろそろ引き上げることにした。
ビルから外へ出ると、キンキンに冷えた空気の中、真っ白な息が空に上がった。

ショーンは助手席のドアを開けてくれるとき、「トーマスはnonが気に入ったようだったな。」と言った。あはは、でも、本当に楽しい人だったよ。

「そいつは良かった。」

というと、ショーンはドアを閉めた。その後運転している間中、ショーンは無口だったが、突然吹き出した。なになになに?

「さっきさ、途中でトイレに行ったんだよ。」

あら、そうだったの?それで?

「偶然、トーマスたちも一緒になってさ。3人のトーマスだよ?」

え?偶然?3人が?あはは!それでどうしたの?

僕がおしっこをしているっていうのに、3人で僕のことを囲んでさ。"彼女をどこで見つけたんだ!白状しろ!"って言うんだよ。ごまかした返事をしてたらさ、"お前にしちゃ出来過ぎだ!"とか"何かあるに違いない。"とか"どこかから借りてきたのか?"ってコツキまわされたよ(笑)」

あははははは。面白い人達だねぇ。それで、なんて答えたの?

「あんまし言うから、悔しくなって"結婚はいつになるかわかりませんけど"って答えておいたよ。彼らは僕達が付き合ってるって、ずっと信じているわけだ。」

おいおい、それじゃあウソじゃないか

「君は上出来だったよ!彼らが疑うくらいにね!」

ショーンは上機嫌だった。帰ってから、ピーターとメリーアンのいる別荘に電話をして、パーティは成功だった、という報告をした。私達は、パジャマに着替えて、眠くなるまで暖炉の前で話をした。

今日は、いろんな人の名刺ももらった。楽しかった。何より、ショーンに恥をかかせることなくパーティが終わってくれて、本当によかった。

明日はピーターとメリーアンがいる、北の別荘へ私一人で遊びに行く予定だ。私は、幸せな気分でまぶたを閉じた。

(つづく)



6日 にわか仕立てのレディ
 
誰もいないお家の中で、私は一人きりだった。

"ギラギラ光った銀色のハイヒール。少し派手でも、パーティだから大丈夫。"

全身鏡の前で、私は何度も自分に言い聞かせる。
ハイヒールは、町の靴屋で買ってきた。けっこうな値段だった。小さなサイズがあって、本当によかった。

鏡に映る自分の足は、まるで借り物のようだった。はぁ...、こんな色しかないんだもんなぁ。

ハイヒールのことはもういい。私は他の作業に取り掛かることにした。マニキュアだ。以前、フィリピンのある島へ行った時、ビーチで若い妊婦さんにマニキュアを塗ってもらったことがある。私は不器用なので、自分でマニキュアを塗ることが出来なかった。でも、彼女が塗っている様子をしげしげと観察していると、マニキュアを塗る作業というのは、実に奇妙で楽しそうに見えた。

ヤスリで爪の形を整え、爪の根元にある甘皮をきれいに除去して、ベースコートを塗る。ベースコートが乾いたら、マニキュアを二度塗る。それが乾いたら、今度はトップコートを塗って仕上げに入る。家に帰って自分でやってみたら、嘘みたいにきれいな爪に仕上がった。それ以来、割りとマニキュアが好きになった。ただし、月に一度山に登る私は、それほど爪を長く伸ばせるわけでもなく、不精で爪が伸びたときだけの、ほんの一時の楽しみとなっている。

色はパールホワイトにした。秋だけど、今回のドレスに合う色といえば、そんなものしかなかった。ギコギコとヤスリで爪の形を整えながら、なんで私はこんなことをしているんだろう、と少し不思議な思いがした。

マニキュアが仕上がったところで、恐怖の髪の毛セットに取り掛かることにした。一体、この作業にどれくらいの時間を費やすかわからない。以前、ポニーテールをしようと練習をしたことがあった。汗まみれになりながら一時間の格闘の末、仕上がった髪型は、土佐衛門にしか見えなかった。今回はどんな髪型にしたらいいのか。私にもセット出来る髪形とは

私は、ごまかしが利くように、ドレスに合わせた蝶の形の小さなヘアピンをいくつも購入していた。鏡の前にそれをバラす。冒険だとは思ったが、アップの髪型を試みてみる。無残にも、バラバラと髪の毛が落ちてきてしまう。それに、奇跡的にセットが出来たとしても、いつバラバラとセットが崩れるかいつもひやひやしていないといけない。私はアップは諦めた。ポニーテールも変だし。思いつめた私は、最後の手段に踊り出た。とにかく、首の後ろで一本に結ぶのだ。おばさんスタイルと言われようが、ネギを買いに行く主婦の髪型と言われようが、私は首の後ろに一本に束ねることにした。輪ゴムの回りに、蝶のピンをいっぱいとめていく。それだけだと芸がないので、前髪付近の長い髪を一束残し、二つに分けて両方に垂らした。なんか、偶然にも、"アジアっぽさを強調"って髪型に仕上がった。ちょっと乱れてるけど...もういいっ。これでいいんだ。髪の毛のセットは、これにて終了!ふー。私は汗をぬぐった。

あとは、アクセサリーを付けて完了。ずっと前に、ここの家族から、私はエメラルドのネックレスと、それと対になっているピアスをプレゼントされたことがある。私がショーンのお誕生日に油絵をプレゼントしたのに対して、ものすごく感謝したショーン一家が、私のためにって選んでくれたネックレスとピアス。私の宝物だ。ネックレスは、いつもいつも肌身離さず付けている。今夜は対のピアスもつける。ネックレスとピアスが対になってると、やっぱりちょっと豪華な印象になる。

新聞を読んで待っていると、ショーンが帰ってきた。私の姿を見て、口笛を吹く。

「だから言ったろう?君はパーフェクトだって!」

そんなこと、言われた覚えないよ。
まぁ、とにかくショーンは満足してくれたようだった。よかった。ショーンさえそういう気持ちになってくれたら、後はどうとでもなるだろう。

会場へ向かう道すがら、パーティのスタイルを教えてくれた。お食事の時間になるまで、会場のバーでお酒を飲み、しばらくしてから、テーブルについてお食事をする、とのことだった。

「何しろ、この慈善事業に携わっている人は、みんな中年なんだよ。僕は会うたびに『ご結婚はいつ?』とか『恋人は出来たの?』とか聞かれるんだ。あんまし浮いた噂がないんで、みんなは僕がホモだと疑っているくらいだよ!」

そう。今夜であなたのホモ疑惑も打ち消されるわけね。その代わり、"アジア人好み"と思われるわけだ。あははは。

ショーンは違うよ、違うよ、と言いながら、口を尖らせた。

会場に到着すると、私達は腕を組んでバーの重たいドアへと歩いた。ショーンがドアを開ける。

「ハーイ!ショーン!プレジデント就任おめでとう!」

と皆が彼の肩を叩く。狭いバーは、スーツを着た紳士とドレスを着た淑女でいっぱいだった。私達は、ショートカクテルを注文して、人垣の中の空間をなんとか見つけた。ショーンが、チーズやオリーブなどのつまみを持ってきてくれる。うわー、なんか、私達が一番若いじゃん!

「ところで、君の隣の素敵な女性を紹介していただけないかな?」

人々がショーンに尋ねる。

「彼女は、僕が日本にいた頃からの友人で、世界中を旅しているのです。」

えっ!?世界?アメリカだよ!アメリカとニュージーランド!そりゃ他の国も行ったことあるけどさー...。ブツブツ

だよね?non?

うっ、威圧。わかった、そういうことにしておきたいんだね?わかった。はい、そうです。私はワールドトラベラーです。

おおーっという感銘の声が響く。おい、大袈裟だよー。

「それで、現在、彼女は全米を旅しているわけです。」

おおーっとまたどよめきの声がする。オーバー過ぎるー

「それで、君はこのWausauには何をしに来たの?」

と一人の男性に聞かれる。もちろん、ショーンとその家族に会うためです。
おおーっと一際でかいどよめきの声。やったじゃないか、とショーンの肩を叩く人もいる。もしもし、なんか勘違いしていませんか

「君は、ショーンに会いに来たんだろ?この、ショーン君に。」

そうです。と答えると、周囲がゲラゲラと笑い出す。こんな片田舎に、遠い国からショーンに会うために女の子がやってくる、というのが、本当に可笑しいらしかった。そうなのかなー。なんか、みんなが笑ってると、私まで可笑しくなっちゃうなー。あははは。あれ、ショーンの顔がこわばってる...。

人が増えて、新しいプレジデントとなったショーンは、挨拶に忙しくなってきた。私は一人で取り残される。まぁ、外国人の輪に入ると、どうしてもポツンとなってしまうもの...。

いやー、こんな田舎に日本人の女の子が来るなんて、驚きだなー。」

「ホント!それもショーンに会いに来たんだろ。」

「彼はいつまで経っても一人身でねぇ、我々も不思議に思っていたんだよ。」

見る見る三人の男性に囲まれてしまった。私が一人になる、などという心配は無用のようだった。ところで、皆さんのお名前をお聞きしてもよろしいですか?

「ああ、これは失礼。私はトーマスです。」

トーマスです。はじめまして。」

「私もトーマスです。よろしく。」

さ、三人ともトーマスさんなんですか。私はそれぞれのトーマスと握手を交わし、旅や私の今後の計画についてお話をした。完全に、私はショーンの彼女と思われている様子だった。いいんだろうか。

そうこうしているうちに、ショーンから一人の男性を紹介される。金髪碧眼、顎が二つに割れた、本物のハンサムだった。へぇ、Wausauにも、こんなハンサムさんがいるんだねぇ。

なんでも、彼は私の旅に異様に興味を持ったらしく、お互いの紹介の後、矢継ぎ早にいろんな質問をされた。隣で彼の奥さんが苦笑している。なんでも、彼のお家には"Hanako"という女性がホームステイをしていたらしい。日本は興味深い国だ、と言ってくれた。私も、調子に乗って、日本の文化やアメリカとの相違点や類似点などの見解を話す。いよいよ彼は興奮して、顔を輝かせながら私にいろんな質問を浴びせる。

「お食事の用意が出来ました。会場までお越しください。」

と係りのものが言いに来た。
ハンサムな彼は、まだも話し足りないといわんばかりに話している。しかし、ついに奥さんに引きずられるように会場に去って行った。私も、ショーンと一緒に会場に移った。

会場には、白いテーブルクロスのかかった長テーブルが並んでいた。
私達は、トーマスさん達と同じテーブルについた。

私は、少し感激していた。慈善事業のグループというから、お金持ちの気取った人達ばかりが集まっているのかと思っていた。でも、実際は違っていた。彼らは気さくで、ウィスコンシンののんびりした空気を吸って育ってきた、正真正銘のWausauの人々なのだ。ウィスコンシンではチーズが有名。彼らはそのチーズをフライにして、売ったお金を貧しい人々に寄付をしているとのことだった。

「僕達に出来ることは、こんなことくらいだ。自分の出来る方法で、ささやかでも何か社会に役に立ちたいと思ってね。」

一人のトーマスが、そう言ってウィンクした。
なんだか、慈善事業 = 偽善 みたいな公式が出来あがっていた私だけど、トーマスの言葉が、そんな凝り固まった公式をほんのちょっと柔らかくほぐしてくれたような気がした。そうか。自分の出来る方法でやればいいんだ。役に立ちたいと思う気持ちは、偽善じゃない。お金だけを集めて、ぽいっとそれをどこかに送る。それは一見、誠意のないやり方に見えるけど、そんな方法でしかボランティアに参加できない人っているんだもの。ようは、役に立ちたい、と思う心なんだね。"いいことをしている自分"に満足する気持ちだけで動くことが、偽善と言われることなのかもしれないな。

そんなことを考えている私の元に、オードブルが運ばれてきた。
パーティはまだ始まったばかりだった。

(つづく)



5日 さぁ、ドレスを買いに行こう!
 
私は玄関の窓から外を眺めながら、ショーンが帰ってくるのを今か今かと待ち構えていた。

明日のパーティのために、今夜はドレスを買いに行くのだ。
ここは、Wausau、小さな町。小さなデパートと道路沿いの商店ですべてを揃えなくちゃいけない。ちゃんと気に入るデザインが見つかるかなぁ。ちゃんとサイズは合うかなぁ。あんまし高いのは、いやだなぁ。困った困った。なんでこんなことになっちゃったんだろう。

あ!ショーンが帰ってきた!

「洋服はご飯を食べてから行こうよ。」

のんびり屋のショーンがネクタイを弛めながら、テーブルに着いた。
そうか。仕事帰りだもんな。忙しかったんだもんな。ちょっとゆっくりしてから行きたいよね。じゃあ、飲もう。とりあえず、オールドファッションを飲んで、おつまみ食べて、ご飯を食べよう。

メリーアンが外のグリルでステーキを焼くというので、ショーンは普段着に着替えてそれを手伝った。ショーンは赤いトレーナーがよく似合う。白い肌に、金髪、そして青い目、赤い唇。まるで、映画『ホームアローン』に出てくる男の子みたい。あの子よりだいぶ太ってるけど。どうして、彼女がいないのかなぁ?(どんくさいから?)

今夜の夕飯は、野菜サラダ、牛ステーキ、ビーツ、ポテトフライだ。もっと食べろ、もっと食べろと私の皿にステーキを盛るので、調子に乗ってがつがつ食べてしまった。ご飯の後にお洋服を買いに行くというのに、お腹がぱんぱんだ。だって、メリーアンの料理はとっても美味しいんだ。限界まで食べちゃうよ。

夕食後、ショーンと私は、町のデパートまで繰り出した。デパートというか、ちょっと小さめのショッピングモールといったところか。米国有名シューズショップ、『フットロッカー』や有名ランジェリーショップ、『ヴィクトリアシークレット』などが軒を連ねている。その中でも、わりと手頃な金額の洋服が置いてある、若者向きのショップに入る。私の洋服を買うときの決断力は、ものすごく早い。靴はもっと早い。10秒で決まるときもある。なぜなら、私の足のサイズは21.5cmと、とても小型なので、サイズがなければ終わりだし、サイズがあってもそれほど種類がないので選択の幅も狭いのだ。

今回のお買い物は、ドレスがメイン。フォーマルといっても、セミフォーマル程度でけっこう、というので、ちょっとした余所行きという格好でいいようだった。

時計は、8時をもうすぐ回ろうという時間だ。これは急いで決めないと、店が閉店してしまう。しかし、ドレスのコンセプトは既に決まっているのだった。コンセプトは、"品のあるセクシー小悪魔風"。けっして安っぽくあってはならない。が、なるべく安っぽくない生地の服を選んだとしても、その辺りには限界があるだろう。かといって、高級品には手が出ない。こうなると、靴やアクセサリーで勝負するしかない。

「こんなのはどう?」

と、ショーンが手にするドレスは、まるで父親が娘に派手な格好をさせたくないと強く思っているのがありありと窺えるデザインのものばかりだ。悪いけど、ショーンには相談しないことにするね。

足早に店内を回ると、私は黒いドレスを手につかんだ。ベルベット調の生地で出来た、タンクトップのミニドレスで、肩紐が背中のところで交差するようになっている。露出度が高いので、ショーンの顔が曇る。しかし、これなら背の低い私でもなんとか格好がつきそうだ。胸のところに、キラキラした蝶が数匹刺繍されているのがかわいらしい。鏡の前で合わせてみる。うん、背が低いおかげで、ちょうど短すぎず、品のある丈になる。よし、これにしよう。

「これは?」

既に私の心は決まっているというのに、ショーンが小さな花柄のワンピースを私に突き出した。それを着て、野原を駈けたら、それこそ"自然派純情素朴少女"になってしまうよ。ごめん、ショーン、私、そんなの着れない:...

ものの15分ほどでドレスは決まった。あとは、その上に着るジャケットだ。ジャケットなんて高くて買えない。ここは、シャツをジャケット代わりに着るのがよかろう。隣の店へ移動し、また元の店へ戻ってきて、ぐるぐるまわった。この頃には、もうショーンは、ただもう私の後ろをついてくるだけだった。やっと私がこれでいいか、と手にしたのは、グレーの光沢のある生地のシャツだった。袖のところをいっこまくると、まるで王子さまのブラウスみたいになる。ちょっと宇宙人っぽくて怖いけど、背に腹はかえられない。時間がないし、お金もない。もう、これにキマリ!

ショーンが「僕が買う!」と申し出てくれたのを、やんわりとお断りして、自分で買った。私の背後では、閉店間近だというのに、大柄の女性が「これ似合うかしら〜。」とやっている。うん?ずいぶん声が野太いですね...。って、男だよ!そうかー、Wausauみたいに小さな町でも、おかまはいるんだなー。私が日本で暮していた町も小さいけど、おかまはいないと思うなー。さすがアメリカさん。(← 偏見)

支払いをクレジットカードで済ませる。私のサインは漢字だ。なぜなら、英語のサインは上手に書けないからだ。すると、私のサインを見た女性の店員が騒ぎ始めた。

「カッコイイ!これって漢字でしょう?カッコイイ!ねーねー、見て!漢字よ!」

他の店員まで集まってくる。わー、カッコイイ!と大騒ぎだ。漢字には、意味があるんだよ、なんて言っちゃったもんだから、女の子達に「私の名前を漢字にして!」と頼まれてしまった。私は適当な当て字で、名前を書いてあげた。それもけっこうむりやりだ。もう、意味なんか苦し紛れもいいところ。それでも、女の子達は大喜びしてくれた。なんだか、急に自分がインチキ幸せ振り撒き野郎になった気がした。

異様に感謝されながら、店を後にした。靴は、明日の昼間に一人で買いに来ることにした。一人の方が身軽でいいし。

お家に戻って、ショーンとメリーアンとピーターの前で、ドレスを着て見せた。ショーンはなんだかニヤニヤして黙ってる。ピーターは、まるで孫でも見るような目で、まぶしそうに私を見ている。...この家には娘がいないからねぇ。メリーアンだけが、腕を組んでじっと私の姿を見ていた。

「グレー。グレーね。それもチャコールグレー。私の持っているやつをあげるわ。」

突然、メリーアンが提案した。彼女は自室から新品のストッキングを持ってきて、それを私にくれた。わー、どうもありがとう、メリーアン。ストッキングのことなんて、あんまし考えてなかったよ。

チャコールグレーのストッキングのおかげで、全体的にぐっと秋らしい格好になった。さすがメリーアン!ちゃーんとドレス全体を見立ててくれるんだから。どうもありがとう!

「いいのよ。パーティを楽しんでね。」

あとは、ヒールと髪飾りだ。ふと、私は不安になった。
実は、明日からピーターとメリーアンは、北にある別荘へ遊びに行ってしまうのだ。パーティは明日の夜。パーティの直前に私の格好をチェックしてくれる人はいない。髪型も...自分一人でやるのはとても不安だった。大丈夫かな、私一人で。ねぇ、メリーアンたち、本当に明日行っちゃうの?

「パーティの翌日、別荘に遊びにいらっしゃい。待ってるから。」

うん、行く!
あー、でも準備は自分一人でやらなくちゃいけないのかー。うううー。

パーティの支度は、思いっきり付け焼刃の感が否めないが、まぁなんとかなるだろう。いや、しなくちゃいけない。ショーンに恥ずかしい思いをさせないためにも、きちんと一人でやらなくちゃ。

アメリカ一人旅でこんなことが待ちうけていようとは、思いも寄らなかった。どんなパーティなんだろう。ちょっと不安で、ちょっと楽しみ。

どうか神様、私のせいでショーンが笑い者になったりしませんように。

(つづく)



4日 私の知っているアメリカ
 
私が目覚めて、キッチンへ降りる頃には、ショーンはとっくのとうさんに会社へ出勤してしまっていた。なんだよー、挨拶なしなんて、冷てーじゃねーかよー。

ショーンのパパとママは、既にリタイアをしている。二人でのんびり、悠々自適な暮らしを送っているわけだ。寝ぼけ眼の私に、ショーンのパパ、ピーターがおはようとコーヒーを注いでくれた。続いて、おはようと言って、ショーンのママ、メリーアンがトーストを出してくれた。昨日はあんなに寒かったけど、今日はこんなに暖かい部屋にいて、暖かい人達に囲まれている。なんか、今までの人生に、感謝だなぁ。

さて、今日はまず、車を修理に出さないとなぁ。

「そうよ。出さなきゃダメよ。ヒーターなしなんて、死んでしまうわよ。本当よ。レンタカー会社を訴えてもいいくらいよ!」

メリーアンは本気で怒っていた。確かに、私は昨日、死んでいてもおかしくない状況だったのかもなぁ。ちょっとオーバーな気もするけど

電話帳で車の修理工を探してみる。その姿を見たメリーアンが、町にある修理工に連れて行ってくれると申し出てくれた。

「私の記憶では、デパートの近くに絶対あったはずなの。あそこだったら絶対にnonの車を扱っているはずよ。でもね、いい?nonは修理代なんか払わなくていいのよ。これはレンタカー会社の責任なんだから!」

メリーアンはまだ怒っていた。うーむ。これは、よっぽど怒ってもいいことなのかもしれない。

私は、メリーアンの運転する車に先導されて、町の修理工まで赴いた。この町には数回訪れているので、道の順番もなんとなく覚えている。おー、懐かしいなぁ。以前も、こんな秋頃に来たことがあったっけ。そのときは、紅葉が本当にきれいだったんだよなぁ。今年の紅葉は、なんとなくぼやけた色だった。鮮明な黄色、強烈な赤、という具合ではない。今年は気温の差がそれほどなかったのかもしれないなぁ。

ほどなく到着した修理工で車を預ける。この町の人はみんなフレンドリーだ。修理工のお兄さんは、にっこり笑って修理を引き受けてくれた。故障している部品を交換するために、ちょっと時間はかかるが、今日中には出来あがる、ということだった。

私達はいったん、お家に戻り、ピーターを連れてランチを食べに出かけた。

北の方のアメリカでは、昼間からのお酒にあまり抵抗がない。健康マニアの多いカリフォルニアだったりすると、昼間にビールを注文するだけで、白い目を向けられたりするもんだ。暖かい気候だと、お酒なんかで体を温める必要がないからかもしれない。私達は、バーのスツールに腰掛けた。平日の昼間なんかのバーに入り浸っているのは、夜勤明けの人か、リタイアしている老人か、仕事をしないで酒ばかり呷っているルーザーと相場が決まっている。

カウンター越しには、バーの店主である老人とその息子と思われる人物が、言葉少なげに店を切り持っていた。バーは暗いが、窓から刺し込む外の光りに、店内の埃が舞っているのが見える。昼間のバーとは、静かなものだ。

私達は同じハンバーガーを注文した。メリーアンは氷入りのバドライト、ピーターはただのビール。

「nonは何を飲むの?」

水をお願いします。

バーの息子は、は?水?という顔をしたが、氷の入った冷たい水を出してくれた。アメリカは、日本のようにウーロン茶とかジャスミン茶とかそういった甘くないお茶がない。酒以外の飲み物は、みんな甘ったるい炭酸ジュースかフレッシュジュースだ。だいたい、あんなにコーラばっかり飲んでるから、ぶくぶくぶくぶく太るんだよ。脂肪を抜いた牛乳飲んでたって、コーラ飲んでたら同じなんだよ。

まぁいい。私は昼間から酒を飲むのは好きなほうだ。明るいうちから飲む酒というのは、ひじょうに贅沢に感じる。ただ、ショーンのお家にいると、常に酒が振舞われるので、外にいるときくらいはちょっと自重したのだ。

「non、今夜は何が食べたい?」

ウキウキした顔で、メリーアンが尋ねてきた。

肉!肉がいい!ひゃっほう!

「オーゥケーィ。」(ニヤリ)

なんとなく意味深な微笑みを送るメリーアン。知ってる、知ってるよ、その顔。メリーアンは、また私を死ぬほど満腹にするつもりなんだ。私はよく食べる。メリーアンはそれが嬉しくて嬉しくて仕方がないのだ。よく食べる私の顔を見て、彼女はこう言ったことがあった。

「まるで、息子が一人増えたみたいよ。」

メリーアンの料理はとっても美味しいのだ。だから、つい私もバクバク食べてしまう。今時のアメリカ人は、レンジでチンする料理や簡単レトルトばかりを食べている。そんな中、メリーアンは未だに"手作りの味"にこだわっていた。私は、メリーアンの手作りの味が大大大好きだった。

いったん家に戻ってしばらくしてから、私達は別のバーに出向いた。このバーには、私も何度か訪れたことがある。この店には、牛乳瓶の底のようなメガネをかけたおじいさんが、いつもカウンターで飲んだくれている。以前、このバーに来たときには、おじいさんがニューフェイスの私に挨拶に来てくれたことがあった。

「日本人かね?ほぅ、えくぼが出来るのか!珍しいな!俺も日本には行ったことがあるよ。沖縄にね。」

はぁー、沖縄ですかー。バケーションでですか?

「あそこはきれいな島だった。第二次世界大戦中に行ったんだよ。」

おいおいおいおい。
これには堪らずショーンも吹き出した。ホント、私もブラックなギャグかなって思ったよ。

思い出深いバーである。おじいさんは、いつもと同じようにカウンターに腰をかけていた。何もかもが変わってない。ここでは、私が以前ここへ来た時と同じように、毎日が過ぎているのだ。いつものように、いつもの場所で、いつもの酒を。私だけが、時を経ているような奇妙な感覚を覚えた。まるでタイムマシンに乗ってやってきた気分だ。

「何を注文する?non?」

メリーアンに聞かれる。ここへ来たら、間違いなくオールドファッションを注文することにしている。

「ブランデーベースのな。」

とピーターが一言添える。
ウィスキーをベースに、アンゴスチェラビターズとソーダで割ったカクテル、オールドファッション。ショーンのお家では、ウィスキーをブランデーに代えてカクテルを作る。私も、この味に慣れてしまっていて、今更ウィスキーベースのオールドファッションを飲む気になれない。

カウンターの中のおばさんが、「息子さんがさっき来たけど、あなた方がいないってわかったら、すぐに帰っちゃったわ。」と教えてくれた。かわいそうに、ショーン。お家に帰っても、私達はいないよ。あははは。

帰る途中、修理に出した私の車を拾って、お家に戻った。お家の前に、ショーンの車が駐車してあった。

メリーアンがそろそろ夕飯の支度に取り掛かる。私は手伝わない。メリーアンにはメリーアンのやり方があって、私が手を出すより、彼女一人でやったほうが彼女の気分もいいからだ。私とピーターとショーンは、食卓に座って食事が出てくるのを待っていればいいのだ。

「あら!野菜がないわ!non、ちょっと買ってきてくれない?」

よしきたがってんだ。
こんなとき、気軽に頼んでくれるメリーアンに感謝する。だって、私だって本当は何かお手伝いしたいんだもの。王様みたいにでんっとテーブルに座ってるだけなんて、申し訳なさ過ぎる。

「お釣りで好きなものを買ってきていいわよ。」(ウィンク)

うーん、完全にお子ちゃま扱いされているような気分だよなー。ま、いっか。
私は近所のスーパーまで車を走らせた。メリーアンから頼まれた野菜をカゴに入れる。お釣りで好きなものかぁ。何買おうかな。あ、そうだ。ねぎ、ねぎを買おう!

わけぎよりもちょっと太い、ネギがある。これを食前に、お酒のおつまみとして飲むのが、私は大好きだ。水を差したコップに、ネギをそのまま入れる。塩をつけてかじる。酒を飲む。ネギの辛さが堪えられない。これは、初めてショーンのお家に遊びに来たときに覚えたつまみだった。

「ただいまぁ!」

とお家に帰ると、ショーンが吹き出した。

「ただいま、だってよ。すっかりお家に帰ってきたって気分だな。あははは。」

うるさいなぁ。いーじゃん。ここはとっても居心地がいいんだから!
私はからかってばかりいるショーンとピーターのために、オールドファッションを作ってあげた。二人のレシピは微妙に違う。ショーンは濃い目の味が好きだ。ピーターは薄味で、お酒を多めに。自分のためにもオールドファッションを作って、テーブルについた。メリーアンも、自分のお酒を作って席に着く。オーブンの中では美味しそうに何かが焼けている。焼きあがるまで、しばし団欒だ。みんなニコニコ笑ってる。今日あったこと、バーで仕入れた町の噂話などでおしゃべりに花を咲かせる。いいなぁ、こういうの。

ショーンが会社の話をしている最中だった。出し抜けに、彼が言った。

「今日ね、トラックの運送会社を経営している人にあったよ。」

へぇ。そう。

「non!930kmも運転するなんて!トランクの運転手もそんなに走らないってさ!それもヒーターなしで...」(ブツブツ)

まったく、nonはクレイジーだとショーンは首をふっていた。

夕飯は、真っ赤なトマトの乗ったサラダと、チキンのグリル、そしてチーズのかかったベイクドポテトだった。おいしそー!

チキンを食べながら、再び出し抜けに、ショーンがこう言った。

「nonには、パーティに同席してもらうからね。ドレスは持ってる?

も、持ってるわけないじゃん。なんで旅にドレスが必要なのよ。全部、ニュージーランドに置いてきたよ。

「そうか。じゃあ、明日買いに行こう。一応、フォーマルなパーティなんでね。」

なんのパーティなの?私が同席してもいいの?

「実は...僕は今年、慈善事業のプレジデント(会長)になってしまったんだ...(えへん)。そのお披露目パーティなんだよ。会員はみんな中年で、既婚者ばかりなんだ。だから、パートナーなしでパーティに出席するなんて、恥ずかしいだろ。ちょうど君が来てくれたから、ほんと、助かったよ。」

ショーンが会長...ちょっと吹き出しちゃうな。まぁ、どうせ周囲が体良く若者に、やっかいな幹事を押し付けたというところだろう。気の弱い人だからなぁ。どうも「ノー」と言えない。まるで日本人だ。

「おまけに、いつまでたっても僕に浮いた話がないんで、みんなが面白がってるんだ...。」

わかった。わかったよ、ショーン。私が出るんで、話がまとまるなら一肌脱ぐよ。あ゙ー、ドレスかー。髪型のことも考えなくちゃー。靴も買わなくちゃー。私、一人で髪の毛をセットなんて出来ないよーーー!!

斯くして、私はあさっての夜に行われるパーティに出席することとなってしまった。

(つづく)



3日 ああ、野麦峠
 
「じゃあ、今日の夕方には到着するから!」

といって、友人との電話を切った。今日向かうウィスコンシン(Wisconsin)州には、かれこれ10年近い付き合いをしている親友がいる。彼の住んでいる町、ワウサゥ(Wausau)が本日の最終目的地だった。距離にして、930kmほどある。飛行機では何度も訪れたことのある町であったが、車で訪問するのは初めてのことだ。

ミズーリから北へ向かう途中、黄色く染まり始めた木々が美しかった。この景色は、ちょっとウィスコンシンを思い出す。なだらかな丘と枯草色の牧場、黄色く染まる木々たち。空がどんよりとしているから、なんだか長閑だけど侘しい風景に見えた。ポカポカ景色と冷え冷え空のミスマッチ、といったところか。

私が、何かの間違いに気がついたのは、小ぬか雨が降り始めた頃だった。

日が当たらない天気で、車内はとても寒かった。ヒーターを点けても、一向に暖まる気配はない。どんなにダイヤルをHの方へ回しても、冷たい風が吹くばかりだ。私は、ジャケットを持っていなかった。Tシャツにチェックのシャツ、というお決まりの格好だけだ。外へ出歩くことはないし、もしものときは、買えばいいと思っていた。Wausauに行けば、デパートもあるし、そこで子供用のジャケットでも買えばいい。

それが、とんでもない間違いの始まりだったのだ。

本格的に降り始める雨。冷房のように冷たい風が、私を直撃する。そのうち暖かい風が出てくると思ってたのに。もう、暖房は諦めよう。きっと、どこか故障しているんだ。外の空気も入ってこないように吹き出し口も遮断しちゃえ。

辺り一面が灰色だった。だんだん、寒さが募ってきて歯がガチガチと鳴り出した。こう見えても、私は野生派だ。山で遭難した時のノウハウくらは心得ている。こういう時は、眠っちゃいけないんだよ。それ以前に、運転してるから寝ちゃいけないんだけど。こんなこと考えてもなんの足しにもならないな。うーん、この寒さをしのぐにはどうしたらいいか。うーん。...!!そうか!、運動か!

私は運転しながら運動を始めた。体を上下に動かし、左右に動かす。フロントガラスの視界が揺れる。危険だから、やめておこう。私は考えた。何か、何か名案はないだろうか。...ひらめいた!そうか、歌えばいいんだ。ニュージーランドでも、思いきり声を出して歌ったときは、汗が出たもの。よし、唄おう!

何を唄おう?

今更、日本の歌謡曲など思い出せなかった。もちろん、最近の新曲すら知らない。最初は、『赤とんぼ』とか『ハレルヤ』などの合唱ソングを歌っていた。パートはソプラノだったので、一応主旋律が唄える。これが、アルトだったりすると、もはやそれは旋律ではなく、暗い気持ちの坊さんソングになってしまう。いや、こんな歌じゃダメだ。何か、何か、心の叫びとなるような歌を唄わねば!焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き〜♪ちがーう!

気がつくと、私はなぜか原田知世の『時をかける少女』などを唄っていた。そこから調子付いた私は、そのまま角川事務所特集と称して、角川女優が出した歌を、軒並み唄い尽した。まさに、車内一人ライブである。

ああ、なんだか体があったかくなってきたような気がする...。

私は今、マッチ売りの少女のような気分だった。歌を唄いながら、暖かいものを想像して体を温める。幻の暖かさじゃ、私の歯の音は止まらない。体までもがぶるぶると震え始めた。寒い、本当に寒い。本格的に寒い!!

ふと、私の体温で車の窓が曇り始めているのに気がついた。はぁーっと息を吐くと、白い煙が上がった。見ただけでも寒い。

給油のために、高速道路を降りた。車のドアを開ける。外気が体に当たる。車内の気温と外の気温はまったく変わらなかった。寒いよ〜。給油をしている最中に、運転席の足元にビョンと飛び出ている物体を見ることにした。前から気になってたんだけど、ちゃんと見たことなかったんだよねぇ。なんか、これが暖房と何か関係がありそうな気がするんだけど。

ビョンと出ているコードの先には、平べったい円形のプラスティック製のキャップがついていた。寒さで手が震えているので、なかなかコードをきちんとつかめない。やっとの思いで表面を見ると、『 C → H 』と書かれていた。こ、これはもしかして、Cold → Hot の意味?これって、どっかにきちんとはめ込まれているべきものなんだーーーっ!!!わーわー!!寒いぃぃぃ〜!!わーわー!!今まで暖かい地方を走ってきたし、お天気に恵まれていたから、ヒーターがイカレていることなんてまったく気がつかなかった

私は給油が終わると、すぐさまガソリンスタンドのコンビニへと入っていった。ああああ〜...あったかーーーい。中では薪ストーブが焚かれていた。他の客はすべて分厚いジャケットを着こんでいる。こんな薄着をしているのは私だけだ。温かいコーヒーを注文して飲んでいると、スルリと鼻水が落ちてきた。溶けてる...私の中で凍っていた鼻水が、溶けてる...。私は恐ろしくなってきた

一体、私はこの寒さの中、何時間運転すればいいんだ?

今まで生きてきた中で、最長何時間、寒さに震えたことがあるだろう。寒い季節には、暖かい服が寒さから守ってくれていた。例え、薄着で外に出たとしても、1時間もそのままでいたことはあるまい。

時計を見ると、2時半だった。ウィスコンシンはまだまだ先だ。なんとかがんばって、日暮れ前には到着したいなぁ。私は、コーヒーカップをごみ箱へ放り投げると、慌しく車に乗り込んだ。とにかく、走るしかないのだ。ハンドルを握る前に、手をグーパーしてみる。よし、血は通ってきた。がんばるぞ。

相変わらず唄いながら、私は運転し続けていた。もう、喉が枯れて声が出てこない。いや、もう、唄う元気すらなかった。本当に寒くて、体の芯からすっかり冷え込んでいる気分だ。私は押し黙った。歯をガタガタ鳴らしながら。もう、手は悴んで、ハンドルを握ることも出来なかった。腿で片手を温めて、交互に片手で運転した。その腿すら、もう冷たくなっていた

3度目のガソリンスタンドには、バーガーキングが併設されていた。私は飲みたくもないのに、熱いコーヒーを注文した。そして、ここから友人に電話をすることにした。もう、時刻は5時。本当だったら、彼の家のそばまで近づいていないといけない時間だ。お腹も空いてきた。でも、ここで食事をしてしまうと、彼のお母さんの飛び切り美味しい料理が無駄になってしまうことになる。我慢だ。我慢しよう。空腹くらい、なんだ。

電話を待ちかねていたかのように、ワンコールで友人が出る。

「ハイ、non!今、どこにいるの?」

ウィスコンシンの州境くらいじゃないかな。

「そうか。あと4時間もしないで到着すると思うけど、どこかで一泊してから来るかい?」

どうしよう、マディソン辺りで一泊すれば、とにかく寒いのはそこまでだなぁ。

「マディソンから家は、1時間半くらいだと思うけどね。ママも待ってるよ。どうする?」

...行く。行くよ!待っててよ!

「オーケイ!じゃあ、がんばってな!」

電話は切れた。彼は、私がどんなに寒い思いをしているかなんて、気がつくはずもない。だって、電話をしているここは暖房が効いてるんだもん。声が震えない。

暖かい建物の中から出るのは、本当に名残惜しかった。

一時は激しかった雨が、今は小雨に変わっていた。もっと北へ行けば、そのうち止むかもしれない。しかし、雨が止む頃には、夜がやってくるだろう。夜は寒い。今よりもっと寒くなる

私はほとんど血の通っていない手を、腿の下に入れて温めながら、運転しつづけた。一体、何キロ走ってきたんだろう。辺りは暗くなり、周囲の車がヘッドライトをつけ始めた。ああ、もう夜だ。夜が来てしまった。

本当に寒かった。時計は7時を回っていた。ああ、お腹が空いた...。

お金もある、車もある、服もある。それでも私は、最高に貧しい気分だった。死にそうに寒い中、空腹に耐えながら、運転をしつづけている。ああ、私はバカだ。でも、私はショーンに会いたかったし、ショーンのママやパパにも会いたかった。こんな気持ちの時だから、ショーンのママのあったかいスープが飲みたかった。よし、もうちょっと、がんばろう。

しばらく走っていると、ようやく標識に『Wausau』という文字が見えてきた。
ひゃっほーーーっ!ついに到着したぞーーー!あともう少しだーーー!あの牧場も覚えてる!あの看板も覚えてる!道路の曲がり方だって覚えてる!あと、40分くらいでショーンのお家だ!

辺りの景色を見ながら、夢中になって以前の記憶を呼び覚ましているときだった。...私は、一瞬、息を呑んだ。この辺りは湖や池が多い。小さな池が、道路沿いの森から、ひょっこり顔を出している景色は、本当に童話的な美しさがある。それが今、月明かりに照らされて、乳色に染まっているのだ。ぼんやりと青白く浮かぶ藪の向こうに、小さな池が煌煌と輝いている。ひっそりとした、幼心を呼び覚ます神秘さがそこにあった。

こんなに寒いのに、私の心は踊り始めた。寒くて寒くて、もう何がなんだかわからない状態なのに、自然の内緒に触れたような気がして、嬉しくなった。

ショーンが先ほど説明してくれた通りに高速道路を降り、言われたとおりの道を運転した。だけど、私は道に迷ってしまった。ここはどこ?私の目指している、白いお家はどこ?

ようやく見つけたガソリンスタンドから、ショーンに電話をする。

「今、目の前に見えるものを教えてごらん?」

えーっと、えーっと...前に、きれいな煉瓦造りの建物があるよ。歯医者って書いてある。でも、その前に書いてあるスペルが読めない。難しいよ、ショーン。私、読めない。ここ、どこ?もう寒い。寒いよ、うぇーん。

もう、泣きたい気分だった。しかも、歯の音が合わないので、言葉にもなっていなかった。

「non、落ち着いて。すぐに迎えに行くから、待ってるんだよ。」

電話は切れてしまった。もう、私は空腹と寒さとで、今までにないくらい弱気になっていた。ガソリンスタンドのコンビニにいると、ショーンが私の姿を見つけられないかもしれないので、車の中で彼を待つことにした。相変わらず寒く、外も中も変わらない温度だ。息をするだけで、白い煙があがる。寒い。雪が降ってもおかしくないくらいだ。ああ、ショーンは来てくれるかな。ショーンは私のこと、見つけられるかな。ショーンはどっちから来るのかな。...おや?

向こうから、のんきな笑いを浮かべた、背の高いでっぷりとしたアメリカ人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。ショーンだ!!

私は、車から飛び出ると、ショーンに向かって一直線に走って行った。ショーン!ショーン!寒かったんだよ!ヒーターが壊れてて、寒かったんだよ!ご飯も食べてないんだよ!お腹も空いたよ!会えてよかったよー!わぁーん!

私は丸太のように大きなショーンのお腹に抱きついて、泣き真似をした。だって、泣きたい気分なのに、涙が出てこないんだもん。

「わかった、わかった。とにかく、あったかいお家に帰ろう。」

私の中で、何かがほどける音が聞こえた。寒さと、長距離運転と、空腹とが、だんだん遠ざかって行く音が聞こえた。その代わりに、私の中で安心が浸透していく音が聞こえた。

お家に帰ろう。

その一言が、嬉しかった。

(つづく)



2日 この町で見た風景
 
さすが南部、と思ったのは、一面の綿畑を見た時だった。

私はI-30、I-40と乗り継ぎ、北を目指していた。メンフィス(Memphis)のわきを通って、I-55へと到着した。更に北へと向かう。目的地はウィスコンシン(Wisconsin)だ。さすがに、今日一日では到着できない。どこかで一泊しよう。

紅い枝に白い綿が、嘘のように咲いている。ふわふわの綿が生る、とても不思議な植物だ。アスファルトの上で、くるくると綿花が舞った。こんな光景、初めて見た。やっぱりここは南部なんだ。見渡す限りの綿畑。ずーっと続いている綿畑。その向こうには空しかない。180度の大空だ

今夜は、ペリービル(Perryvill)という、ケンタッキー州(Kentucky)とミズーリ州(Missouri)の州境にある、小さな町に宿をとることにした。高速沿いにある、本当に小さな町である。

モーテルの前には、大きな森が広がっていた。車から降りると、リーリーと虫の声が聞こえる。ああ、もう秋なんだな。つい4日前まで暑いところにいたというのに。ずっとずっと東に向かって走ってきたけれど、今日から北へ向かってるんだ。猛スピードで私の回りが秋になるんだ。なんだか、季節をワープしているみたいな気分だ。

周囲の木々は、ほんの少し黄色く色づいてはいたが、完全に秋の装いをしているわけではなかった。ただ、静かな夕闇の中で響く、リーリーという虫の声だけが、この土地での秋の訪れを知らせていた。

辺りがすっかり藍色になる前に、私はマクドナルドへ行くことにした。

意外にもマクドナルドは混雑していた。隣にKFCもあるが、今夜はなぜかマクドナルドが食べたい。並んででもいいから、今夜はマクドナルドのハンバーガーを食べるのだ。

ふと横を見ると、そこにはフォーマルにドレスアップした女の子が二人立っていた。学校のダンスパーティだ!一方の子は、肩の開いた淡い紫色のドレスにショールを羽織り、もう一方の子は水色のドレスに肘まである白い長手袋を身につけていた。どちらも、髪の毛をアップにして、きれいな髪飾りをつけている。かわいいなぁ!

その姿を見て、しみじみ自分の高校時代を振り返ってしまった。私の通った女子高にはダンスパーティこそなかったけれど、毎日毎日が楽しかった。先生をからかうのも、友達と騒ぐのも、あろうことか、トイレ掃除までもが楽しかった。しかし、今振り返ってみても、高校時代が私の人生の中で、一番地味だったように感じる。それほど悪いこともせず、良いこともせず...いや、悪いことはした。校門を乗り越えて、菓子パンを買いに行ったことがある。授業をサボって、先生にぶたれたこともあるぞ。良いこともした。かなり遅い時間まで、地下の倉庫で文化祭の準備をしたことがある。俳句・短歌の大会で、みんなに気前良く自作の短歌をばら撒いたことがある。これで数人が入賞した。生徒会の選挙で、応援演説を頼まれ、体育館中を笑いの渦に巻き込んだこともある。うーん、今考えても、地味な高校生活だった。

私がじっと見ているのに気がついた二人は、はにかんだ笑いを浮かべた。私が自分の高校生活を回想していたことなど、想像だにしていないことだろう。それにしても、イヴニングドレスでマクドナルドっていうのが、なんとなく現代風だよなぁ。しっかり腹ごしらえをして、今夜を楽しんでね。

私はお持ち帰り用の袋を下げて、ホテルへ戻った。ハンバーガーにかぶりつきながら、テレビをつける。ああ、こんなに毎日モーテルに泊まっているのに、テレビをつけたのは久しぶりだなぁ。あ、天気予報だ。えー?明日は雨ーーー?運転、気をつけなくちゃ。

翌朝、天気予報の言うとおり、空は灰色だった。
目の前の森では、無数のブラックバードがピーチク鳴いていた。

今日は、ウィスコンシン州の友人宅まで走るつもりだった。ここから、約930kmほどドライブしなければならない。一日で到着できるだろうか。そんなに運転したことないけど、がんばってみよう。

この時私は、自分がよもや"あんな目"に合うこととなろうとは、知る由もなかったのである。

(つづく)



1日'' 鼓動の速いリラックス
 
彼女の名前は、バーリー(仮名)と言った。

個室は、ほんの4畳半ほどの広さで、中央にマッサージ用のベッドが備え付けてあった。部屋の端には、彼女の持ち物やマッサージオイルと思われる小瓶がいくつか並んでいた。

「さぁ、むこうを向いて。シーツを床に落としてね。そして、ベッドにうつ伏せに横になって。」

おー、ここでもすっぽんぽんかー。私がバーリーに背中を向けてシーツを落とすと、背後で何かごそごそする音が聞こえた。少し降り返ると、バーリーは別のシーツで、私の裸が見えないように衝立を作っていた。私は、すばやくベッドに乗って、うつ伏せになった。バーリーが私の体に大きなシーツをかけてくれる。

「リラックスしてくださいね。」

そう、言って彼女は私の肩を優しく叩いた。

背中のシーツをずらして、バーリーのマッサージが始まった。肌に塗られるオイルは、触れると熱くなるという不思議な代物だった。バーリーの手が、背中の筋に沿ってマッサージすると、彼女の指の通り、背中に熱が走るのである。うーむ、実に気持ち良い

しかし、直接肌に触れるようにマッサージされるっていうのは、初体験だ。...なんか妙な感じ。私の脳裏に雑念が浮かび始める。

肌がきれいですね。」

おいおいおいおい、質問の質といい、タイミングといい、絶妙すぎるよ、バーリーさん。

背中のマッサージを一通り終えると、彼女のマッサージは足に移った。
足にかかっていたシーツをめくる。ふくらはぎに心地よい温かさが走る。あー、今日は足が棒になるまで歩いたんだよなぁ。こういう時のために、マッサージはあるって感じ。ああ、くたびれるまで歩いて正解だった

昔、父が話してくれた、ある童話があった。

ある国の王様が「世界で一番美味しいものを食べたい」とのたまいました。。王様は普段から贅沢な食事をしていたので、家来達は途方に暮れてしまいました。すると、ある家来が意気揚揚と立ち上がりました。「どうぞ、王様。私に付いて来てください。」王様は、家来が美味しいものをご馳走してくれるのだと思って、喜んで家来に付いて行きました。王様と家来は、ある畑に到着しました。家来は、王様に鍬を渡して、こう言ます。「今からこの畑を耕してください。」王様は怒りました。「ごちそうはどうしたのだ!」家来は言いました。「ごちそうは、この畑を耕した後に差し上げます。」畑作業の後でごちそうが出るというのだから、王様は仕方がなく家来の言うとおりにしました。ごちそうのために、王様は一生懸命に畑を耕しました。くたびれるまで畑を耕しました。お腹もぺこぺこになってきました。こんなにお腹がぺこぺこになったことはありませんでした。すると、家来が「もういいですよ。ごちそうを差し上げます。」と言いました。「どこだ?どこだ?世界で一番美味しいごちそうはどこだ?」「こちらです。」家来が王様を連れてきた場所には、ただのじゃがいもの塩茹でが鍋の中で湯気を立てていました。「ごちそうはどこじゃ?」家来はじゃがいもを指差しました。「これでございます。」王様は怒り出しました。「世界一のご馳走というのに、じゃがいもの塩茹でだけとは何事か!」家来は言いました。「恐れながら、どうぞ、一口でも召し上がってみてください。」王様は家来に言われたとおり、じゃがいもを一口食べてみました。するとどうでしょう。このじゃがいもは、今までのどんなご馳走よりもたいへんに美味しかったのです。王様はこんなに美味しいものを今まで食べたことはありませんでした。一体、これはどういうことでしょう?家来は言いました。「お腹が減るまで働くと、どんなものでも世界一美味しく感じるものなのです。」

長くなったが、私は、ぼんやりとこの童話を思い出していた。

バーリーのマッサージが、次第に臀部に近づいてきた。ん?んんん?バーリーがシーツをまくった。臀部が露になる。ちょっと気まずい。でも、彼女はプロのマッサージ師。何も心配することはないのだ。何より、彼女は同性じゃないか。バーリーの指が太ももから臀部にかけて走る。バーリーの指が内腿にかかる。うぉーっ、ちょっと待った〜っ!バーリーの指が付け根ギリギリまで伸びる。ちょっ、ちょっ、ちょっとーーーっ!

ふと、彼女の息遣いが荒くなっていることに気がついた。

ま、待て。落ち着け。バーリーはプロだ。(ここは密室だ。)バーリーは歳をとっている。(年齢は関係ないんじゃないか?)バーリーは、疲れているんだ!(この手の職業には多いって言うよな...。)やーめーてーーー

「はい、今度は反対側ですよ。」

私が仰向けになるときも、バーリーは白いシーツを衝立にしてくれていた。シーツで全身を覆って、今度は顔、首、鎖骨付近をマッサージ。ああ、やっぱりこれは至福の時なのだ。下世話な推測なんてしたら、バチが当たる。

バーリーが上半身のシーツを控えめにめくった。控えめだろうが、なんだろうが、めくったら見えるもんは見える。16歳以下と聞かれようが、なんだろうが、私にだって恥じらいはある。しかし、バーリーは淡々としていた。胸やお腹をマッサージ。こんなとこ、マッサージされたことなかったけど、うーん、これ、気持ちいいの、かな?

バスタブで体を洗ってくれたキャロラインと同様に、バーリーはデリケートな部分は巧みに避けていた。巧みに避けているように見えた。いや、巧みに避けていたに違いない。でも、時々、バーリーの指が微妙にちょこっ...ちょこっと触れる。そのたび、私はギクリした気分を味わう。いいのか?これで。いいのか?

バーリーのマッサージは、次第に足へと移動していった。
足の指の間をマッサージされる。余計な知識が私のリラックスタイムの邪魔をする。先ほどから私は気が気じゃなかった。しかし、バーリーは淡々と彼女の仕事をまっとうしている...ように見える。いや、そうに違いない。

バーリーの手が、次第に太ももに近づいていく。
さっきは後ろからだった。今度は前から。おい、前だぞ、前。無防備だぞ。いいのか?私!

私の気持ちなど知る由もないバーリーの指が、太ももの付け根まで伸びる。おっ!たっ!とっ!ふぅ...。バーリーの手が、上下に動くたびに私は無意味に動揺する。はっ!ふっ!ほっ!ふぃ...。いよいよ、きわどいまでにバーリーの指が付け根の付け根に触れそうになる。ちょっと待った〜〜〜っ!!!指が止まる。バーリーの息遣いが荒い。再び手が動き始める。妙に下半身は念入りだ。(ような気がする)

ああ...

バーリーの桃色吐息ともとれる、彼女のため息が微かに聞こえた。

いいのか?いいのか?いいのか?これで。マッサージ?リラックス?個室?健全?私の頭の中を、無数の単語がサイケデリックに回転していく。常識って?クリントンって?イヴの目覚めって?

再び、バーリーが私の全身にシーツをかける。軽く掌をマッサージしてくれた。

「はい、起きあがってください。」

バーリーのマッサージは終了した。彼女は、にっこりと優しい微笑を浮かべて、私をシーツで包んでくれた。

「後は更衣室で着替えて、ベッドで眠るだけよ。」

ポンポンと私の背中を叩いてくれた。体がずいぶんと軽かった。今までの私の動揺ってなんだったんだろう?彼女は一生懸命やってくれたじゃないか。

彼女は、先ほどの揺り椅子のところまで、私を送ってくれた。どうもありがとう、バーリー。ホントに気持ちよかったです。

彼女は嬉しそうに手を挙げて、二階の自分の個室へと消えて行った。
私は自分の洋服に着替えた。なんか、気持ちよかったのと、へんな緊張とで、頭がぼーっとする。えーっと、これで終わりだよね。会計は済ませているし...。あ!こういうときのチップってどうやって払うんだ?お風呂の方はみんなバラバラに担当していた。全員にあげると私の懐に問題が発生する。でも、あんなに一生懸命にやってくれたバーリーには、少しぐらいチップをあげたほうがいいんじゃないだろうか。超フィジカルタッチの仕事だし...。でも、いくら払ったらいいのかわからない。私は受付で聞いてみることにした。

「そんなのいくらだっていいのよ。志なんだから。あなたがどれだけ気持ちよくなれたかってことなんだから。」

そうか。そういうものか。じゃあ、少ないかもしれないけど、自分が払えるくらいのチップを払おう。あ、でも、次のお客さんが入ってしまっていたらどうしよう。

先ほどの、揺り椅子で編物をしていたおばあさんに、バーリーにチップをあげたいのだけど、と聞いてみた。

「彼女、今一人よ。いってらっしゃい!」

おっけー。私は気分よく階段をかけあがり、バーリーの部屋へ向かった。
個室のドアがほんの少し開いていた。ドアの向こうで、バーリーはこちらに背を向けて、自分の手帳に何か書き込んでいた。私は、軽くドアをノックした。

「まぁ、どうしたの?」

あの、チップを持ってきたんです。いくらかわからなくて。少ないかもしれないけれど。

「まぁまぁまぁ!いくらだっていいのよ。嬉しいわ。」

バーリーは本当に嬉しそうに微笑んだ。
そして、私を抱きしめると、両頬にキスをした。

そのキスは、やっぱし少し長かったような気がした。

(つづく)



1日' 丸腰気分でロックンロール
 
受付でお金を支払う。

「お名前は?」

黒い太いマジックペンを持った、受付の女性がマジックのキャップを取った。

「nonです。」

すると彼女は、糸瓜(へちま)で出来た束子の裏側に、大きく"NON"と書き込んだ。そして、「ごゆっくり。」とにっこり笑って私に束子と名札をつき出した。束子は、私の顔ほどの大きさで、鍋つかみのように中に手を入れられるようになっている。束子と一緒に手渡された名札には、"キャロル"と書かれていた。私は、糸瓜の束子と名札を落とさないように持つと、恐る恐るバスハウスの扉を開けた。

扉を開けるとすぐに、真っ白なシーツを手にした女性がやってきて、私を更衣室まで導いてくれた。彼女が更衣室のドアを閉めながら言った言葉に、私は耳を疑った。

「お洋服を全部脱いでください。」

え?ぜ、ぜんぶ?

全部です。」

日本じゃ銭湯やら温泉やらがあって、知ってる人も知らない人も、全員裸で語らいながらお風呂に入る習慣がある。しかし、西洋文化には"人前で裸になって入浴する"習慣などはないと信じていた。これまでずっと、そういうもんだと思ってきた。それが今、目の前に立つ、こてこてのアメリカ人が「全部脱げ」と言っている。私は、騙されているんだろうか。他の人は下着くらいは付けているのに、私だけが裸んぼ、なんてことになったらどうしよう。いや、そんなことがあるわけない。でも...いやしかし...でも...。ううううーん、いいや、全部脱げって言ったら、全部脱げなんだ

私は、コクリと頷くと、更衣室のドアを閉めた。

「だいじょうぶよ。出てきたら、すぐにシーツでくるんであげるから。準備が出来たら、言ってね。」

ドアの向こうでスタッフの人に声をかけられる。シーツでくるむってことは、シーツでくるんでくれる人は私の体を見るんだな。いやだな。だってさ、何でか知らないけど、外人って自分と違う人種の裸に興味を持つじゃない。前に、温泉旅館の脱衣所で、仕事上がりのフィリピンダンサーと出会ってさ。彼女達、私が服を脱いで風呂に入るまで、押し黙って見つめてたんだもん。きっと、ここのスタッフの「Oh! Japanise naked body!」とか言っちゃってさ、じろじろ見られるんだ。あーあーあー、もー、見たいなら見せてやるよ!ほら!

バン!勢いよくドアを開ける。
すると、塗り壁のように白いシーツが左手に聳え立っていた。ひー。
瞬く間に私はそのシーツに包まれた。なんと懐かしい。小さい頃、私はよく『エキゾチック姫』と称して、バスタオルを前で重ねて首の後ろで結ぶというドレスを仕立てたものだった。スタッフは、白い大きなシーツを使って、鮮やかな手つきで私を『エキゾチック姫』に仕立ててくれた。バスタオルより、シーツの方が数段本格的だ。ちょっと大きくて引きずってるけど。

ふーむ、裸であって、裸じゃない。ふーむ。
感心していると、スタッフが私の洋服をロッカーにしまってくれ、束子を返してくれた。

「あっちへ行って、大きな声でキャロラインって呼んでみて。じゃあね!」

彼女は行ってしまった。私はトコトコと言われる方向へ行った。カーテンをぐぐると、そこは天井の高い、大広間になっていた。そこには、病院で置かれているような簡易ベッドが所狭しと並んでいた。ツンと消毒液の匂いもする。

私は、しばし呆然と立ち尽くした後、蚊の鳴くような声で「キャロライン」と呟いた。

いらっしゃーい。もうすぐあなたをとろけるくらいリラックスしてあげるぅ。(ドスドスドス)

と、巨大な女性が私に向かって突進してきた。そのまま踵を返して帰りたくなったが、私はぐっと堪えてその場で待った。

「私はキャロライン。あなたの名前は...(私から束子を奪う)...non?でいいかしら?」

は、はははい。nonでけっこうです。
じゃあ、こちらについてきて、とキャロラインがずかずかと歩いて行った。私は、小走りに彼女についていった。

キャロラインは私を小さな浴槽の置かれた小部屋へ案内すると、シャッとカーテンを閉めた。そして、ザバザバと浴槽の中へお湯を注ぐと、私の体からシーツを剥ぎ取った。このとき、私は生まれて初めて"丸腰"という気持ちを味わった。

「さぁ、そーっと浴槽の中へ入って。んー、あなたは背が小さいから、板がいるわねぇ。」

というと、彼女は浴槽の中に板を立てかけた。このおかげで、私は浴槽に腰をかけても、足が届かないために溺れることはなかった。(浴槽が大きいと、私はお風呂で溺れる)

お湯はぬるくもなく熱くもない。本当に気分がリラックス出来る温度に、キャロラインが調節してくれたのだ。彼女は、ちょっと熱い温泉の湯を小さなカップに注ぐと、それを私に手渡した。

「今から20分くらいお湯に浸かって、ゆっくーり、リラックスしてもらうわ。時々、カップのお湯を飲んでね。これは、発汗促進のためなのよ。」

にっこり笑うと、彼女は行ってしまった。
私は、お湯に浸かりながら、実はうろたえていた。何をどうしていいのか、まったく予測が出来ない世界。そう、ここはまさに未知の世界なのだ。私は、25歳にして初めてディスコに行ったときのことを思い出した。そういえば、あの時も何をしていいのかわからなくて、ちょっとうろたえたんだよな。

私は、お湯をすすりながらキョロキョロと部屋を観察した。小部屋の隅には、白いシーツがきちんとたたんで、山のように積まれている。部屋の壁は、コンクリートが剥き出しになっていて、なんとなく室内が暗い感じだ。なんというか、バラの模様のタイルとか心地よいミュージックとか、そういう日本によくある心遣いとは無縁なわけだ。

しばらくすると、体が温かくなってきて、汗をかき始めた。そうだ、私は今日は、未知の体験におののきに来たのではない。疲れた体をリラックスさせるために来たのだった。ふぅ、とため息をつくと、目を閉じて、しばし無心になる。

シャッ!

「どう?リラックスしてる〜?」

キャロラインが入ってきた。リラックスはしていたが、今度は何が待ち構えているのかわからないので、私は少し身構えた。

「これから、体を洗わせてもらいますね。」

なぬーーーっ!!体を洗ってくれるのかーーーっ。これは、まさに『裸商売』じゃないか。裸商売の女に悪い人はいないんだよ。あなたは良い人に違いない。

キャロラインは、先ほどの束子にボディシャンプーを付けると、浴槽に寝そべっている私の体をごしごしと洗い始めた。が、ふと彼女は手を止めた。

「あなた、おいくつ?16歳以下?

おいっ!人の裸見て、それはないだろう!どうせ私の体は未発達だよっ。でも、10歳以下?って聞かれなくてよかった。

「日本人って若く見えるのよ〜。」

そうかもね。何もかもが、あなたより小さいものね。しばし、私達は世間話に花を咲かせた。

キャロラインは、お腹側と背中側と足を軽く洗い流し、微妙なところは巧みに避けた。そーだよなー。フィジカルタッチの職業って、人のデリケートな領域に踏み込む仕事だもんねぇ。

風呂から上がると、先ほどと同じようにキャロラインがシーツで私を包んでくれた。その後、私はスチームサウナかドライサウナの選択を迫られたので、ドライサウナの方を選んだ。

「サウナは10分間よ!それじゃあ、どうもありがとう!」

キャロラインはサウナのドアを閉めた。キャロラインはバスタブ係なので、サウナ以降はまた別の人が担当するのだ。サウナの中でじっとしていると、ダクダクと汗が吹き出てくる。ふーっ熱い。ぽたぽたと流れる汗は、止まることを知らない。うー、暑い。もう10分経ったんじゃないの?まだ誰も呼びに来ない。うー、目が回るよ〜。

かれこれ20分間は待たされただろうか。遅くなってごめんなさい、とスタッフが呼びに来たときには、私は既に茹蛸状態を超えた、干物状態であった。

「まぁ!そんなに暑かったなら、出てきてもよかったのに。」

笑われてしまった。言われたら、言われたままの日本人。ええ、私は日本人ですとも。

軽く全身にシャワーを浴びた後、今度は病院の救急室に置かれているような、白くて細長いベッドに横になる。すると、スタッフがキンキンに冷えた水とタオルを持ってきてくれた。冷えたタオルを顔に乗せ、熱いタオルを疲れた足に巻いてくれる。本当は、腰とか肩とかに熱いタオルをあてがうみたいなんだけど、今日は歩き疲れてたから足にあてがってくれ、と注文をしてみたのだ。ものすごく冷たいタオルが、火照った顔からどんどんと熱気を取ってくれる。熱いタオルが、足の疲れをどんどんとほぐしてくれる。これぞ至福。生きててよかった。

「はぁーい、起きてちょうだい。ベイビー。」

ベ、ベイビー?あなた、今、私のことをベイビーと言いましたね。高校生の時は老け顔で、制服すら似合わなかったこの私を、ベイビーと呼びましたね。

しかし、彼女は隣に寝ているおばあさんにも、ベイビーと声をかけていた。

再び、私は白いシーツに包まれ、ちょっとした待合室へと連れて行かれる。そこは、冷たい水が自由に飲めるようになっていて、揺り椅子にゆらゆらと揺れながら、くつろげるようになっていた。扇風機の涼しい風に当たり、火照った体を落ち着かせる。他にも数人が揺り椅子で揺られながら、目を閉じていた。中に、ここのスタッフと思われるおばあさんが、編物をしながら揺り椅子に腰をかけていた。

おばあさんはのんびりした口調で、「どうだった?」と聞いてきた。
私は、初めてなのでとても緊張したことを伝えた。

「最初はみんなそうなのよ。がちがちに硬くなっちゃうの。」

おばあさんと話し始めてすぐに、担当のマッサージ師が私を呼びに来た。背の低い、白髪混じりの女性だった。年齢は、60歳くらいだろうか。片目は義眼のようだった。にこにこ笑っていて、とても優しそうな人だ。

彼女に連れられて、2階の個室へと歩いていく。西洋式のマッサージは、オイルを使って優しくマッサージをする。力任せにしこりをほぐす、東洋式のマッサージとはちょっと違う。私は、初めての西洋式マッサージに期待で胸がいっぱいだった。

この時私は、自分がまな板の鯉になるであろうことなど、想像もしていなかった―――。

(つづく)



1日 偶然からのメッセージ
 
車で少しドライブした先に、メキシカンレストランがあった。そこで昼食を取った後、腹ごなしに散歩でもしようとホテルに戻ってきた。相変わらず、駐車場に人はいない。ギアをリアに入れる。さー、どこを散歩しようかな。ホテルの前にある、小高い山でも登ろうか。ハンドルをぐるぐるっと。それとも、町を散策しようかな。おっけー、このままハンドルはまっすぐっと。今日は土曜日だから、昨日よりも人がいるみたい。夜の食事は...。

ガコッ!!

うっ、やな音。私は慌てて車を降りた。後ろに回る。あああーっ!!後ろにブロックがあったの、忘れてたぁぁぁーーーっ!!

ハニー三世のお尻に、ぼっこりと突き刺さる四角いブロック。むかつくっ!!私は車を前に出し、ハニーの損傷を確認した。少し...いや、ちょっと...いや、もっと...かなり、でもない...ううぅーーーーん、けっこう、かな。ハニーのお尻がペコリとへっこんでいた。塗装が剥げて、銀色の原板の色が見えているのが痛々しい。ごめんね、ハニー。あなたは何も悪いことをしていないのに、お仕置きしちゃって。

借り物であるにしても、自分の不注意でハニーに傷を付けてしまったことで、気分は超ブルーになってしまった。

とぼとぼと駐車場を出る。ああ、こんな時は、山登りさ。目の前に山があるじゃないか。(←山というよりは、ほとんど丘)山に登って、何もかも忘れるんだ。自分の罪も、ハニーの傷も。そうさ、私は悪人さ。ハニーを傷物にした悪人さ。ごめんよ、ハニー。許してね。

私は重たい足を引きずるようにして、古墳のように盛り上がった丘みたいに小さな山へと入っていった。そこは、いろんなハイキングコースが用意されている、散歩には絶好の場所だった。頂上には展望台もあるようだ。私は、わざと辛い道を選びながら、どんどん頂上を目指して行った。

山道は好きだ。足を踏みしめると、小枝の割れる音や、枯葉が崩れる音がする。鳥のさえずりや風に揺れる木々のざわめきを聞きながら、ただひたすらに歩きつづける。何日も縦走しているときは、辛くて、苦しくて、なんでこんな所へ来てしまったのだろうと思うことがある。もう何日も歩き続けているのに、これからあの山へ登るんだよ、と遠くに聳える(そびえる)山を指差されることもある。振り返ると、自分の歩いてきた山脈が、ずっと見渡せることもある。そんな時は、自分への挑戦に打ち勝ったような気分になる。けれど本当は、山を歩く行為というのは、自分を見つめ直すためにあるような気がする。無口に、自分と語り合う時間なのだ。頂上はひとつの通過点でしかない。下りの一歩一歩を踏みしめながら、登りの時と同じく、やはり無口に自分と語り合うのだ。すべてが終わったときは、またひとつ、自分の何かが変化したような気になる。だから、私は山道が好きだ。登山が好きだ。

けっこう歩いた。途中、大きなリスに出会った。私の姿を見つけると、すぐさま木の陰に隠れてしまった。怖がることないよ、出ておいでよ、と声をかけると、木の幹からひょっこりと顔を出して挨拶してくれた。うふふ、かわいい。

もう、3時間は歩いただろうか。登ったところとぜんぜん違うところに降りてきてしまった。ここはどこだ?目の前に、別の山が聳えている。これを登るのか?もう、8km弱は歩いてるぞ。ちょっと疲れたよ。よし、この山を迂回しよう。私はアスファルトの道を左に向かった。すると、ほどなく、ホテルの裏側に出てきた。あーよかった。別の山を登っていたら、本格的に迷っていたに違いない。

それにしても、疲れたーーー。久しぶりに歩いたので、足がぱんぱんだった。さぞかし、今日の風呂は気持ちいいだろうな。よし、もっと気持ちよくなるために、もうちょっと疲れよう。私は、このままホテルには戻らず、町を散策することにした。

私は、記念館となったいくつものバスハウスを眺め歩いていた。白いかわいらしい建物の前には、かつての全盛期時代の絵が飾ってあった。少し奥まったところには、未だに熱い温泉が涌き出ているところもあった。ふーん、すごい。本当に町中が温泉なんだなー。私は再び歩き始めた。古いバスハウスを丹念に見ていると、こちらを念入りにじっと見つめる女性の姿が目に入った。私は気に留めなかった。再び歩き始めようとしたときだった。

「あなた、びじんよ。」

私のことではないと思い、そのまま歩きつづけた。しかし、声は私を追いかけてくるのだった。

「ねぇってば、あなた、とってもきれいよ。」(←断言するが、私は美人ではない)

振り返ると、そこにはピンクのTシャツに、白いキュロットパンツ、そして、頭には白い帽子を被った中高年の女性が立っていた。私を見て、ニコニコしている。よく見ると、彼女の唇の両端からは、ピンクのよだれが流れていた。

「わ、わ、わ、わたし、学校、行ってないの。あなた、行った?」

前歯が全部抜けているので、何を言っているのか、かなり聞き取りにくかった。そして、彼女が普通の人ではないことに、すぐ気がついた。

「学校には、いじめっこがいてね、先生も守ってくれなかったから、学校、行くのやめたの。あなた、どこからきたの?」

日本です。

「に、に、にほん?それ、ど、どこ?」

とっても遠いところです。一人で来たんです。

「学校に行ったほうがいいよ。べ、勉強したほうがいい。は、早くお家に帰りなさい。」

まだ帰れません。これからまだ行くところがいっぱいあるから。

「お、おうちには、バスで帰るの?」

うううん、車があるから。車じゃ日本には帰れないけどね。飛行機に乗るんです。

すると、彼女は目をまんまるく見開いた。本当にびっくりしたらしい。私達はしばらく話をした。たぶんもう何十年以上も前の、彼女の小学校時代の話だ。先生のこと、いじわるな男の子達のこと、勉強のこと。彼女は、繰り返し、学校には行っておいた方がいい、勉強をしておいたほうがいい、と言っていた。私も同感だ。ふと、彼女は、自分のポケットをまさぐった。

「ねぇ、もしも、50セントくれたら、私のチューインガムをあげる。」

私は甘いものが苦手だ。
うん、そうだな。私にもっと言い考えがあるよ。50セントはあげるけど、チューインガムはいらないの。どう?

すると、彼女の顔にパァーッと笑顔が広がった

「抱きしめていい?キスもしていい?」

いいよ、いいよ。チューインガムの代わりにハグとキスをちょうだい。

彼女は、まるで子供のように私に抱きついた。そして、両頬にキスをくれた。

じゃあ、私はもう帰るね。うううん、バスでは帰らない。今日はホテルに泊まってるから。

「これをね、見せてあげる。もしもあなたがすっごく頭がよかったら、覚えてられるでしょう?」

彼女は、首にさげられた木片を私に見せてくれた。それには、きれいな字で電話番号が書かれていた。私はとても哀しくなった。私は、この電話番号を覚えることは出来るだろう。でも、きっと彼女は私のことを忘れてしまうだろう。ここに書かれた電話番号へ電話をしたとしても、家の人は取り次いでもくれないかもしれない。なにより、私が彼女のことを覚えていても、彼女は私を忘れてしまうという明白な事実が哀しかった。彼女は毎日この通りを何往復もして、いろんな人に声をかけているのだ。私はその人々の中に埋没してしまうことだろう。

私は、嘘をつくことも出来ず、ぼんやりとした微笑を返した。自分のやっている態度が、自分でも嫌だった。でも、どうするべきなのか、わからなかった。

やがて、彼女は去って行った。彼女は、この後もここを何往復もするのだろう。私は、ホテルに帰ることにした。

私は、人との出会いや、偶然の出来事、そういったことすべてには意味があると信じている。彼女との出会いには、一体どんな意味があったのだろう。私にはわからなかった。そのうち、わかるのかもしれない。これは、これからの出来事の伏線なのかもしれない。

なんだか、頭も体も、お風呂のためにはもう十分過ぎるくらい疲れたよ。私はエレベータに乗り、ぐっだりとした仕草でバスハウスのフロアのボタンを押した。

(つづく)

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