10月(中編)(前編へ 9日以前) 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 (後編へ 20日以降)
19日 感謝は天下の廻り物
リリリリリリリリリリリリ...。 ちっ、目覚し時計か。あー、もう朝だー。
今日は、ドウェインと一緒にMt.レーニアの隣の山へハイキングに行くことになっているのだ。よし!起きるかー。大きく伸びをした後、私はむくりと起きあがった。庭には、大きな杉の木が一本立っている。朝の木漏れ日が、庭の芝生を照らしていた。少し靄(もや)がかかった庭に、初々しい朝の空気が立ちこめていた。
手早くシャワーを浴びた後、夕飯の残りのサーディンでサンドウィッチを作った。後は、真空ビニール袋にポテトチップスを入れて、お弁当の準備は完了!っと。
平日だというのに、ドウェインはわざわざ今日のために休暇を取ってくれていた。ドウェインも自分のサンドウィッチを作っている。その背中は心なしかウキウキしていた。
「もう、何年も山登りなんかしてないよ。久しぶりだよ。」
ジャネットが仕事の都合で一緒に来られないのが残念だった。ドウェインとジャネットは、子供が出来る以前からずっとアウトドア派な人だったのだ。子供が小さいうちはピクニックやハイキングも出来たけれど、子供達が思春期を迎えた現在は、家族で山登りなどすることもなくなったという。
「nonが来てくれたおかげで休暇も取れたし、山にも登れることになった。」
と、ドウェインはニコニコしている。うーん、私は素直にこの言葉に喜んでいいのだろうか?
準備が整ったところで、ジャネットと娘達にバイバイをして私達は出発した。久しぶりのハイキング。軽くピストンするだけの、日帰りのコースだ。登山口までは車で行く。私達の車が、出勤の車の間をぬうように走る。途中、山がくびれ、赤土が丸見えの景色に遭遇した。
「最近では、シアトルも住宅開発が進んでしまって、あちこちの山や自然が破壊されているんだ。」
ふーん。アメリカって、乾燥した地域でもどこでも、景観を損ねるからって理由でお外に洗濯物が干せないでしょう?洗濯物が景観を損ねるっていうのに、自然破壊はそうならないのかなー。
「うまいこと言うね。その通りだよ。」
30分ほど走っただろうか。
登山口付近の駐車場はひっそりとしていた。私は靴紐を結わきなおすと、ナップザックを背負った。ドウェインもカメラを持って、準備万端のようだ。そう。ドウェインは本格的な一眼レフカメラで、あちこちの山を撮影していたのだった。ジャネットも、子供達の日々の成長振りも、全部あのカメラで撮影してきた。私は彼のカメラを目にするまで、ドウェインが本格的なカメラを持っていることすら忘れていた。もうここへ来てから3日も経っているというのに、まだまだ奥の方から記憶が引っ張り出されてくる。いつになったらすっかり思い出せるのだろう。私達は森の中を歩き始めた。軽く上下に起伏する細い道。土の匂い、鳥のさえずり、木々のざわめき。ああ、私達はすっかり山に包まれてしまった。
軽く息を弾ませながら、私達は無口に登りつづけた。どれくらいの標高なのかはわからない。ただ、そろそろ肌寒く感じた頃、辺りの木の背が小さくなり、景色が殺風景になり始めた。視界は良好で、目の前にMt.レーニアの勇姿が現れた。真っ白な雪と晴天の空とのコントラストが眩しかった。Mt.レーニアは標高4,395m。実に美しい山である。いつか、こんなきれいな山に登ってみたいな。
枯草色の短い草が一面に広がる空間に出た。椀のように丸く窪んだ大地を流れる小川と小さな池。その水は途方もなく澄んでいて、見る者の心を清めてくれる。所々に突起している岩には、まだ雪が見られない。Mt.レーニアを背にこの丸い大地を見ると、映画『生きてこそ』の奇跡の山越えに成功したシーンを思い出してしまう。少し高台に上って、下を見下ろした。澄んだ池に、青い空と白い雲が映っていた。
私達は、腰をかけるにはちょうどいい平らな岩を見つけると、お昼ご飯を取ることにした。私のサンドウィッチを見て、ドウェインが言った。
「昨日の肉は美味しかったよ。僕の好きな味だった。だけど、あの魚はダメだったな...。」
あははは。そういえば、以前に滞在していたとき、私はどこからか納豆を持ちかえってきたことがあった。ジャネットは、一口食べて「ふーん」と言っていたけど、ドウェインはとにかく見た瞬間から食べることを拒否していた。私も私で、大豆が発酵していると説明したかったのに、語学力のなさから、「大豆が腐っている」と説明したのがいけなかったように思う。まぁ、まだ16歳だったからね。自分の国のことすらちゃんと説明できなかったんだから。
私達はずいぶん長いこと、岩の上に腰をかけていた。私は、なぜドウェイン達が生徒を受け入れるつもりになったのかを聞いてみた。
「僕とジャネットは、ずいぶん長いこと子供がいなかったから、いろんなところへ旅行へ出かけたんだ。そこでね、いろんな人に出会ったんだよ。いろんな人に救われもしたし、いい出会いもたくさんあったんだ。」
ふんふん。
「以前イタリアを旅行したときに、とても困った目にあったんだ。だけど、見ず知らずの人にいろいろと助けてもらってね。その人に、どうしてこんなにまでしてくれるんですか?と聞いたら、『以前私も誰かに助けられた覚えがあるから、それに感謝しているんだ。』って答えたんだ。だから、僕達もその時の感謝の気持ちを大事にして、その気持ちのために何かをしようってジャネットと話し合ったんだ。そんな折、留学生を受け入れるボランティアの話が舞い込んできたんだよ。僕達はそれに参加することにして、そして、nonと出会うことになったんだ。」
ああ、ここにも巡り巡る喜びがあった。いつかどこかで、ささやかな幸せに誰かが感謝している。その感謝が、−本人の意思とは関係なく− どこかの誰かを幸せにする。私がドウェインからもらった幸せは、遥か昔に彼らが旅したイタリアからやってきた。私がもらった幸せに対する感謝の気持ちは、いつかどこかで誰かを幸せにするかもしれない。こうやってまわってるんだ。幸せはまわってるんだ。
もちろん、どこか別の所で、悲嘆に暮れている人がいることも見つめなくちゃいけない。悲嘆は憎しみを生み、誰かを哀しみに落とし入れるのだろうか。では、哀しみも、幸せと同様に巡り巡ってくるものなのだろうか。でも、自ら哀しみに身を置く人っていうのもいるしな。うーん。では、期待を裏切られたときの感情。これは裏切った方が悪いのか?期待しているほうが悪いのか?
...まぁいいや。悲嘆に暮れている人にも、平等に幸せが巡ってくるチャンスはあるのだから。
私が、つい昨夜感じた感謝の気持ちを、いつかどこかで形にしよう。かつて、ドウェインとジャネットがそうしたように。私なりの方法で、私なりの感謝の形を作ってみよう。いつかどこかの誰かのために。幸せな気持ちはずっと続くから、ずっと感謝することが出来るね。自分の哀しみのために、そんな幸せを消費してしまわないように、自分を強くしておかなくちゃ。
帰り道、来た時よりも自分の汚れが落ちたような気がした。歩き疲れて服なんか泥だらけなのに。
ピストンハイキングとはいえ、結局私達は27kmほど歩いた。疲れていたため、帰りの車の中でついに目が開けられなくなり、私は短い眠りに落ちてしまった。ひとつだって、流れる景色を見逃したくなかったのに。
18日 an expected visitor
「じゃあ、お仕事に行ってくるわね。お留守番、よろしく。」 ジャネットは忙しくガレージへ出て行った。と思ったら、またドアが開いた。
「本当に、non。あなたは私達にとって特別な人だわ。」
そして再び慌てて出て行った。
本当に長いこと、私はシアトルのホストファミリーと連絡を取っていなかった。書くはずのお手紙にもなんとなく間隔が開き、何年も、そう、もう何年も連絡を取っていなかった。
日本を離れる前に、ジャネットとドウェインへ手紙を書いた。長く音信不通であったことを詫び、これから日本を去ることを告白した。ニュージーランドからも何度かメールを送った。返事は来なかった。しかし、ある日突然、それは日本を経由してニュージーランドへ転送されてきた。懐かしい、ジャネットの気遣いが散りばめられた手紙だった。また会える、とその時私は喜びをかみ締めた。その時私は、彼の南半球で日本ではなくアメリカを、13年前のアメリカを思ったのだった。
今夜は、私が夕飯を作ることになっていた。お世話になっている感謝の意を込めて、私の得意メニューを披露するのだ。彼らに受け入れられるかどうかはわからないけれど。
私が前回ここにいた時、同じように私は彼らに夕食を作ってあげたことがある。梅干を具に詰めた、おにぎりを作ったのだ。最初に買ってきたお米は、ロングタイプのお米だったのでまったく粘り気がなく、ご飯が握れなかった。日本のお米を売っているお店でなんとか日本米を買い、再度チャレンジした。今度はうまくいった。私の握った三角おにぎりを、彼らは美味しいと言って食べてくれた。今考えれば、海藻から作った海苔なんて代物は、彼らにとってかなりショッキングだったのではないかと思う。お味噌汁も作った。それにもワカメが入っていた。それでも、彼らは美味しいと言って飲んでいた。私も美味しいと思った。だけど、他の生徒達のホストファミリーは、「味噌がくさい。」と言って、飲んでくれなかったそうだ。
ある日、ちょっとしたおつまみを作ったこともあった。それは、フレッシュマッシュルームをガーリックとオリーブオイルで炒め、ドライシェリー酒でササッと香りをつけるという、ちょっと気取った一品であった。しかし、あいにく酒は赤ワインしかないというので、私は赤ワインで香りつけをしたのだった。苦しい仕上がりだった。皿の上で、赤ワインに煮詰められて黒く縮こまったマッシュルームが痛いげに転がっていた。それでもジャネットとドウェインは美味しいと言って食べてくれた。当時4歳だったリサは...。
「こんな美味しいお料理は初めて。とっても美味しいわ。」
と、一口も手をつけないで言っていたっけ。こまっしゃくれたところが本当にかわいかった。それが、今や17歳だもんなぁ。いやいや、エイミーなんて15歳だぞ。あの時は口にすることの出来なかった私の料理を、今夜初めて口にするわけだな。感慨深いものだ。
今夜のメニューは既に決まっていた。旅先で考案した会心の作である、豚肉のハッカク風醤油煮と、オイルサーディンの料理を披露するつもりだった。
夕方近くなると、私は夕飯の支度に取りかかった。実を言うと私は非常にのろい。料理をしているときにバタバタするのは嫌いだ。ゆっくりゆっくり材料を切り、調味料を揃え、お皿の準備をする。あとは、煮たり炒めたりするだけなので、あっと言う間だ。あ、ご飯を炊くのを忘れた。でも大丈夫。ゆっくりゆっくり準備をしよう。だって、鍋だと20分で炊けちゃうもの。すぐだよ、すぐ。
そうこうしているうちにみんなが帰ってきた。リサもエイミーもサッカーのユニフォームを埃まみれにしている。勇ましいなぁ。部屋着に着替えたばかりのジャネットが、慌ててキッチンに入ってきた。
「何か手伝うわ。何をしたらいい?non?」
「僕も手伝うよ。」
ドウェインもキッチンに顔を出す。
いいの、いいの。ジャネットもドウェインも、一緒に座ってテレビでも見ててよ。「信じられない!夕飯の時間に自分の時間を持て余すなんて!」
大喜びのジャネットは、ではお言葉に甘えて、とスウェットに着替えてリビングでエクササイズを始めた。さー、私はそろそろ豚肉を調理するよ。これはね、ニュージーランドで会ったバリ島出身のボンという男が作っていた、てらてらした肉の塊からヒントを得た料理なんだ。中国醤油と玉ねぎで煮るんだけど、これのポイントはハッカク。甘辛く味付けして出来あがり。醤油味がご飯と合うんだ。そして、オイルサーディンの料理。フライパンでニンニクを炒めて風味を出し、そこへサーディンを入れる。続けて、角切りトマトを入れサササッと火を通す。全体的にあったかくなってきたら、火を止めてみじん切りにしたフレッシュパセリを山ほど入れる。ちょっとかき回したら出来あがり。既にこの日記に何度か登場しているワンパターンメニューである。手馴れたもんだよ。お、ご飯もうまい具合に炊けたぞ。
「出来たよー!」
と呼ぶと、ぞろぞろとみんながダイニングに集まった。ジャネットが手早くサラダを作ってくれた。ドウェインがワインを開けてくれた。料理を皿に盛って、さぁ、いっただっきまーす!
豚肉は飛ぶように売れた。美味しい美味しいと、誰もが食べてくれた。しかし、サーディンの方はあまり売れ行きがよくなかった。美味しい美味しいと言って食べているのは、私とジャネットとリサだけだ。ドウェインはおいしそーと言ってつまんだっきり、食べようとはしなかった。エイミーは、苦笑いをしていた。私の料理の洗礼を受けたという顔だ。これでエイミーも一人前になれる。
そういえば、私は美味しそうに見えて実はまずいという料理を作るのが得意だ。どうしてこうなってしまうのかはわからないが、結局、サーディンの料理は残ってしまった。明日、サンドイッチにでもして私が平らげることにしよう。
13年前、私がここにいた時、ジャネットは子育てに大忙しで、お勤めどころではなかった。私はいつもジャネットの運転で学校まで送られ、迎えに来てもらっていた。一人で何もかもやっているつもりだった。でも、一人では何ひとつ出来なかった。そんな年頃だった。
今は、私は自分で車を運転し、勤めへ出るジャネットを見送り、彼らの帰りを待つ。一人では何も出来ないのではないかと危ぶんでいた。しかし、結局は一人で決心し、一人で立ち上がり、一人でここまで来た。いろんな人と関わり、それに支えられながら。
誰にも彼にも感謝したい気持ちなんだよ。だから、毎日忙しくしているこの一家に、のんびり出来る日をプレゼントしてあげたかったんだ。
片付けを済ませてキッチンを出るとき、ふとキッチンを振り返った。
姿も配置も変わらないシステムキッチンは、少し古ぼけていたけどあの頃とまったく変わらない空気が流れていた。ここで、私がいない間もずっと、家族みんなで過ごしてきてたんだなぁ。
私は過去から突然現れたストレンジャーだ。そして、歓迎されているストレンジャーなのだ。本当に、誰彼かまわず感謝したい気分だった。
17日 私のこぼした欠片達
午前中が英語の授業、午後は観光。
高校の時、私のアメリカホームステイプログラムはそのように組まれていた。毎日、家族が学校まで送り迎えをし、週末はずっと家族と一緒に過ごし、異国の日常生活に親しむ。それが16歳の少女にとって、どんなに刺激的な毎日だったか想像が出来るだろうか。街の食品市場へ見学しに行った時、私は生まれて初めて"フライド マッシュルーム"なるものを食べたのだった。シーズニングの利いた衣にくるまったマッシュルームを、カラリと揚げたスナックである。一口食べて、くにゅりとした食感、そしてフレッシュなマッシュルームとシーズニングの匂いに忽ち虜になった。美味しかった。ことに、買い食いや出来合いのおかずを食べることを固く禁じられていた私にとっては、とてつもなく魅力的な味だった。週末には、あちこちの家族にディナーを招待された。中でも印象的だったのは、イタリア人家族のディナーだった。お皿にいろいろな種類のチーズが並んでいた。私はすべてのチーズにチャレンジした末、ついに一番お気に入りの味のチーズを見つけた。そのチーズは、かじるとコリッと音がするくらい固く、口の中でボロボロと崩れ、強い塩味が舌に広がった。未だに名前は知らない。とにかく、私はそのチーズがとても好きになった。その後、日本でもチーズブームがやってきたが、あの時食べたチーズを見つけることは出来なかった。でも、ここシアトルだったら...。
「あーれー。私達、どこへ行くのー?」
大きなシアトルの高速道路を、ブツブツを独り言をつぶやきながら、ジャネットがハンドルを握っていた。やっぱり私が運転すればよかったかなぁ?私は心もとない気分で助手席に座っていた。ジャネットは、あまり都会を運転するのに慣れていないようだ。
私達は街の中心にある、食品市場へ向かっていた。そう、私が高校生の時にフライドマッシュルームを食べた、あの食品市場だ。
「まー、どーしましょー。私達、どーしましょー。」
なかなか車線変更が出来ないジャネットが独り言を繰り返した。知らなかった。ジャネットってかわいい人だったんだ。16歳のときにはこんなことすら気がつかなかったなぁ。あの時に、ジャネットのこんなかわいさを知っていたら、私は何を思っただろう。
車はやがて、市場付近に到着した。駐車場に車を停めて、食品市場まで歩いていくと、視界に港が広がった。あれ、市場は海に近かったんだなぁ。ちょっと記憶と違う。私の頭の中では、とにかくざわざわと人の賑わう市場に、茹でたてのロブスターがゴロンゴロンと山積みになっている光景が鮮やかだった。そうか、サンフランシスコやモントレーの食品市場だって海の近くだもんな。市場なんてそんなものか。当時の私には、そんなことを比較する情報すら持ち合わせていなかった。
市場を見ても、本当に私はここに来たの?と思うほど記憶の中の光景と違っていた。いや、ちょっと待って。こうして店の建ち並ぶ通路を眺めると、その通路の傾きや天井の高さが、まさに私の記憶と合致するのではないだろうか。市場外に続く路地、隣接するビル。そう、私はここに立って、市場を眺めたのだった。そこに、真っ赤なロブスターが山積みになっていた。今は違うお店になっているけれど。
ジャネットに連れられて、揚げ物屋さんへ行く。ガラスケースの中で、揚げ物が赤色灯に照らされて積まれていた。おー!こんな店だったっけー?そうだ。そんな気がするー。あいにく、フライドマッシュルームは、目の前の人のところで全部売り切れてしまった。仕方がないので、チキンのレバーと砂肝の揚げ物を注文した。衣の味は同じだろー。
一口食べる。シーズニングと脂の匂いが鼻中に充満する。既にこの味は、私がここへ来る前に、アメリカのどこかで何度も食べたことがある味だった。それでも、この市場の喧騒とした雰囲気と揚げ物の匂いが、私を16歳のあの頃へいざなった。私は、これを、ここで食べたのだ。
パクパク食べる私を尻目に、ジャネットが微笑んでいる。ジャネットもどう?と勧めたが、健康管理に気を遣っている彼女は食べなかった。そうだ。ジャネットとドウェインは当時から健康に気を付けていた。もちろん牛乳は脂肪をカットしたものだし、卵は黄身についている白い筋を丁寧に取り除き、有機野菜のフレッシュバジルを購入し、その葉一枚一枚を水で洗っていたっけ。ついでに言えば、彼らは無宗教で、宗教的なこだわりがない。つまり、子供に対しても、宗教的に禁じられているいないにこだわらずにしつけを行う。自由でありながら、生真面目さがそこにあった。
市場を歩きながら、二人について話を聞いてみた。16歳の私では、到底理解できない大人の会話だ。ドウェインとジャネットは、それぞれが20歳と19歳のときに結婚をした。二人は子供を作るつもりはなく、一生DINKSでやっていくつもりだったのだという。
「でもね、ある時旅先で赤ちゃんをあやすことがあったの。あら、かわいいって思ったのよ。こんなにかわいいんだったら、私達の間に赤ちゃんがいたら、どんなに素敵かしらって。」
結婚、13年目にしてリサが誕生。その2年後にエイミーが誕生。
「私達、結婚したのが若かったから、子供を産むまでにずいぶんと時間があって、それは二人でたくさん旅行をしたもんだったわ。私達は、二人だけの期間がとっても長かったの。子供を育て上げてから二人きりの時間を楽しむよりも、若いうちに二人の時間をたくさん過ごせて良かったって思ってるわ。」
16歳のときに見たこの夫婦のライフスタイルは、私にとってカルチャーショックだった。一家の父とは、台所に立つこなどなく、食事の準備片付けは妻任せ、汚れた服は翌日アイロンをかけられて手渡される、というのが私の常識だった。ところが、この夫婦ときたら、食事の準備がジャネットの担当だったら、片付けはドウェイン。毎日の洗濯はジャネットがしても、週末の洗濯はドウェインが担当。更に、ドウェインは土曜日の朝に、朝食用のマフィンを焼いてくれるのだ。私は思った。すごい!アメリカ人のだんなさんは、洗濯も出来るしお菓子も焼けるんだ!と。
「じゃあ、nonもアメリカ人と結婚するといいよ。」
なんて、ドウェインはにこにこ笑いながら言っていたっけ。でも、今は知っている。それは国に関係なく、人様々なんだって。ドウェインは、たまたまよく出来た男性なんだって。
話をしながら、私達はいろいろな店へ足を運んだ。量り売りのスモークサーモンや茹で蟹を食べたり、あの時食べたと思われるチーズを購入したりした。私は市場の隅々まで歩き、食べられるものは全部食べた。それを見たジャネットは、
「思い出したわ。nonって、あの時からなんにでも挑戦する子だったんだったわ。」
と吹き出した。とにかく、初めてのもの、経験のないものに果敢に挑戦していた、と。だって、触れてみなければ自分が好きか嫌いか、判断出来ないじゃないの。食べたことなくなって、食べてみなけりゃ、美味しいかどうかもわからない。なんだってそう。初めてのものを目の前にして、あれこれ考えをめぐらせるより、食べてみるか触れてみるか試してみないと、本当のところはなんにもわからないもの。
「私達は、本当にnonに感謝しているのよ。初めての生徒が、あなたでよかったって。」
私の方が、彼らが初めての家族でよかったって思ってるのに。
「nonのおかげで、私達、これからも生徒を受け入れていこうって思ったのよ。ホストファミリーの中には、一度きりで止めてしまった人もいるのよ。」
私は、ただもうふわふわして生活していただけだと思っていたのに。こんなことを言われるとは思わなかった。身に余る言葉だ。
「私達はラッキーだったのよ。nonはアウトドアにも興味があったし、なんでも挑戦してなんでも歓迎していたわ。だけど、その後に来た生徒達は、それほどここを楽しめなかったみたい。アウトドアよりもショッピングに興味のある子ばっかりだったのよ。」
確かに、私の時でも周囲の生徒はショッピングに夢中だった。そんな年頃なのか。まったく笑える話なのだが、ルイ・ヴィトンというブランドが流行しているのも、このホームステイプログラムがあったから知ったことだった。私の周りの生徒達は、こぞってルイ・ヴィトンの財布を購入して浮かれていた。私は、洗練されたロゴの入った不恰好なまでにでかい財布を、呆けた顔をして見ていたように思う。ほう、そいつがヴィトンってやつかい?ってね。
私が当時買い物に行ったのは、せいぜいリサのサマーサンダルをデパートに買いに行った時くらいだった。アメリカの巨大なショッピングモールは、私を感嘆させた。香水の匂いの立ちこめる、天井の高いデパート。広くて、どこに何を買いに行ったらいいいのかわからないデパート。日本に帰ってから行ったデパートの、なんとチンケに見えたことか。
私達は、市場を出て港を散歩しながら、話に花を咲かせた。あの頃と今。私は私。何も変わらない。ただ、13年間の間に、少しずつ階段を上ってきただけ。私の立っている位置は、ジャネットが立っている位置と、もうそう変わりがないように思えた。
「本当に、nonと再会出来たなんて、こんな素敵なことはないわ。こんなふうな会話が出来るようになるなんて...。」
ジャネットは、息を大きく吸い込んだ。私も、彼女と同じように感無量の気持ちだった。
港の潮風に乗って、かもめが飛んでいた。前にここへ来たときも、私はかもめの声を聞いたんだろうな。だけど、ぜんぜん覚えていない。ちょっとした思い出のかけらになるものも、全部見過ごしていた。だから今、あの頃の思い出を拾っておこう。今度こそ、持って帰ろう。確実に。
16日 縁 = 円 即ち 縁起
「じゃあ、夕方までにはここに到着できるわね。道順はわかる?non?」 ばっちーりーば!ちゃーんとインターネットで道順を調べてあるよ!
「そう。もしも迷ったら、すぐに電話するのよ。わかった?あ、それから夕飯に何か特別に食べたいものはある?」
ある。あるよ。私は心から魂をのせて、言葉を発した。
「本物の食事。」
長いこと外食とインチキな自分の手料理続きで、家庭の味に飢えていたのだ。電話口の向こうで笑い声が聞こえた。
「オーケーイ!本物の食事ね!任せておいて!」
じゃあね、といって電話を切った。懐かしい声。13年前のホストマザー、ジャネットの声だった。最後にお別れをしてから、お互いの写真を取り交わしてはいない。それでも一度だけ、成長したリサとエイミーの写真が送られてきたことがある。でも、それすらも10年も前の話だ。私が彼女達と出会った時、リサはまだ4歳、エイミーはたったの2歳だった。今では、私が初めて渡米した頃と同じような年齢になってしまったリサとエイミー。彼女達はどれほど美しく成長したことだろう。ジャネットと、ホストファザーだったドウェインはどれくらい歳を取っちゃったかな。
私は道に迷わないように、慎重に高速道路を走った。標識を見落としちゃいけない。レントン(Renton)の表示を見たら、別の高速道路に合流すること。レントンは、シアトルから車で20分ほどの郊外にある。
うまい具合にレントンの方向の道へ合流することが出来た。あとは、細かい道順を少しも間違わないように行くことに集中する。とにかく、ジャネット達の家に入る私道は、記憶で探さなくちゃいけない。砂利の坂道だった。でも、それしか覚えていない。大丈夫だろうか。
13年前を振り返る。あの頃の私にとっては、見える景色すべてが新鮮だった。よく覚えている。背の高い木々、森の匂い、湿った空気。ジャネットのお家は、そんな自然に囲まれたところにあった。今、目の前にしている光景は、まさに私が13年前に目にしたものではないか?窓を開ける。匂い。この匂い。覚えている。私の記憶が更に鮮明に蘇る。あとは、記憶にある砂利道を探すだけだ。けれども、この通りから枝分かれしている私道は、ほとんどが砂利の登り坂だった。うーん。どの砂利道だ?
さんざん行ったり来りした挙句、勢いで選んだ砂利道に入ることにした。なんとなくここのような気がするし、そうでないような気もするし...。って、あれ?あれれ?なんか見たことある感じ。あの木、あの駐車場、あの玄関...。
「non!よく無事で着いたわね!」
私が確信するよりも早く、ジャネットが外に飛び出てきた。私は車を停めて、ドアを開けた。にこにこしながら、ドウェインも迎えに出てきてくれた。懐かしい。二人とも、本当にぜんぜん変わってない。
「non...!あなた、ぜんぜん変わってないわ!よく来たわね...!」
私達は再会の抱擁をした。長い距離と長い年月を超えた今、点と点を結んだ糸が円を描いた。円は縁の姿。出会い、別れ、巡り巡って再び出会う。出会いの糸が円となった時、縁が完成するのではないだろうか。私の心は、ずしりとした喜びで胸がいっぱいになった。
家の中へ案内された。ジャネット達のお家は広い平屋だ。昔と変わらない間取り、日の射しかげん。リビングに敷かれていたじゅうたんは取り除かれ、フローリングとなっていた。昔は居なかった、真っ白なシベリアンハスキーと毛むくじゃらの猫が私を迎えてくれた。そして、リサとエイミー!私を覚えている?わー、二人とも私より背が大きくなっちゃった。
「私は覚えているわ。でも、エイミーは小さすぎて覚えていないの。nonが来るって知らされた日は、嬉しくて朝から踊りまわっていたのを覚えてるわ。外国人が来る!っていうのがものすごく嬉しかったの。」
リサもエイミーも、はにかみながら迎えてくれた。本当に、彼女達の成長振りを見ると、13年という月日を実感させられる。幼い少女だった彼女達が、今は年頃の美人少女に大変貌だ。なんだか、小さい頃と違って今更お姉さんぶるのがおこがましく感じてしまう。対等に接するべきなんだろう。
初めてここでの朝を迎えた時、自分の好きな朝食を食べていいと言われた。もともと朝食を取る習慣のなかった私は、朝から、大好きになったばかりのクリームサワー&オニオン味のポテトチップスと、日本から持ってきた梅干を食べたのだった。何も知らない2歳のエイミーが、「ウミブゥシ」と言って、私の食べている傍からそれを欲しがっていたものだった。
私が学校へ出かけようとすると、赤ちゃん用の椅子に座らされたエイミーが、シリアルでべっとりになった手を差し出して、「non、どこ、いく?」と赤ちゃん言葉で話しかける。リサといえば、ジャネットが学校まで送ってくれる車に一緒に乗っかって、私が校舎へ入るまでいつまでも手を振っていた。小さなピンクのTシャツと赤い短パン姿が、それはかわいい女の子だった。ああ、13年か...。
再会を祝って、今夜の夕食には、ジャネットのお母さんも訪ねてきてくれた。私は、彼女とは一度しか会ったことがなかったが、美人でゆっくりとわかりやすく話してくれる彼女が好きだった。13年ぶりに知ったことだが、彼女の名前はロビンだった。ロビンも私のことを覚えていてくれ、再会を喜んでくれた。当時生きていたロビンのご主人は、既に他界していた。そういえば曾おじいさんのお誕生日パーティに招待されたこともあったな。彼はご存命なのかな。
「さすがにいないよ。亡くなったのは、何年前だったかなぁ。」
ドウェインが首を傾げる。私はあの時のお誕生日パーティを今でもハッキリと覚えている。親戚中が集まって、曾おじいさんのお誕生日をお祝いしたのだ。そこで初めて、お庭でハンバーグをグリルした、伝統的なアメリカのハンバーガーを食べたのだった。私の知っているマクドナルドの味とは違って、ハンバーグがとても香ばしくて美味しかったのを記憶している。
夕食は、このメンバーに、リサのボーイフレンドとそのお母さんも加わってのテーブルとなった。リサのボーイフレンドはガリ勉タイプの優等生。食事中、しきりと私に文学的な質問を浴びせてくる。今から学問の好奇心がこんなにあるなんて、将来が楽しみな男の子だねぇ。ところで、エイミーにはボーイフレンドはいないの?
「私は...男の子は私なんか見ないのよ。私はサッカーばっかりやってるから、いつも汚れているし。」
あらら、そんなこと言っちゃって。あと1年も経たないうちに男の子達は、エイミーを放っておかなくなるよ。という私に、エイミーは少女らしいはにかんだ笑顔を見せた。
リサとエイミーは、学校のサッカーチームに所属していた。アメリカの女子サッカーの実力は、世界的にも優れている。そんな時流に乗って、リサもエイミーもサッカーに夢中だった。エイミーに至っては、2つのサッカーチームに所属しているくらいだ。
とにかく、私はリサとエイミーに釘づけだった。あの頃はまだはっきりとは形成されていなかった人格。そう、彼女達のキャラクター性が、今は目の前で活き活きと、言葉や動作のひとつひとつに現れているのだ。
ロビンのわかりやすい口調もぜんぜん変わっていなかった。ドウェインは以前よりももっとお父さんっぽい振る舞いをするようになったし、ジャネットは、相変わらず優しかった。前から思っていたのだけど、彼女は映画『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公、マリアに似ている。彼女のまじめで優しいところは、娘のリサにも多分に影響しているようだ。
昔話に花が咲く。前にこのテーブルへ腰掛けていた頃は、彼らとの会話を半分も理解していなかったかもしれない。今なら、彼らの言っていることがよくわかる。彼らも私の話していることがわかる。私達の会話は、以前に比べてより濃密になり、深くなった。交わす言葉が明確にわかることで、彼らのキャラクターもより一層クリアにわかる。そこで確信した。私は本当に素晴らしい家族に巡り会ったのだと。
この13年間の間に、私はたくさんの人達と交友を広げてきた。その中には、人間的にあまり気持ちの良くない人もいた。どこか、距離を置く人達もいた。でも、どうだろう。この無警戒で、開けっぴろげで、温かい心の在り方は。何も知らなかった私には、彼らが"アメリカ人"そのものだった。それまでずっと、彼らのような人達がアメリカ人なのだと信じてきた。それはまるで、小鳥の刷り込みのように、ある期間ずっと定着していた。そうではない人もいると学んできた今、私は心から、彼らが最初のアメリカ人でよかったと実感した。
「さぁ、non。明日はどこへ行きたいかしら?私が徹底的に付き合うわ。」
ジャネットが笑顔をこちらに向ける。
私の行きたい場所は決まっていた。13年前に行った、すべての場所をなぞりたかった。ふわふわとただ興奮の中で見学したものを、見聞を積んだこの目で見直したかった。私の見てきたものは、一体なんだったのか。もう一度見てみたい。ジャネットは、快く引き受けてくれた。
本当に、何もかもがおめでたい気分で、今夜は眠れそうにもなかった。
15日 前世へのノスタルジア
部屋に戻ると、さきほどいた二人の男性は出かけてしまっていた。 「彼らは、町のバーに行ってしまったの。」
と、朗らかな様子で40も半ばくらいの中年女性が話しかけてきた。彼女の名はバーバラ。バーブと呼んでくれ、と言われた。スリムな体型に、ショートカットの髪型と細縁の眼鏡。人を窺うような大きな笑顔は見た目の朗らかさとは違って、人間関係にデリケートな人なのではないかと思わせた。ちょっと、ニュージーランドの学校の先生を思い出した。彼女も、そんな笑顔をする人だった。繊細な神経を持ちながら、いじわるな人間にもなれない人は、いつでも微笑んでいることが多い。ただもうニッコリとしているか声を上げて笑っているくせに、心にはまったく余裕がないのである。ニュージーランドの先生は、優しすぎるくらい優しい人だった。バーブも優しい人なのかな。
部屋には20人も一緒に眠れるほどの二段ベッドが置いてあったが、宿泊客は私を含めてたったの4人だった。それでも私は、バーブのすぐ隣のベッドを選んだ。私はベッドの上に寝袋を広げ、くつろいだ。
バーブと私はたくさん話をした。
彼女も私と同じく車で一人旅を続けていた。私が日本人だと知ると、彼女は嬉しそうに「私の車はTOYOTAよ。」と言った。古い車で、彼女が乗り始めてから既に14年が経っているという。「それでもぜんぜん調子がいいのよ。」
バーブの旅の理由は変わっていた。
「ある日、突然誰かが耳元で言ったの。旅に出なさいって。」
その声が余りにも大きいので、彼女は驚いて振り返ってしまったほどだったとか。彼女は大学を卒業して、すぐに結婚をした。それは彼女にとって、当然の順番だった。高校の後は大学があって、大学の後は結婚で、結婚の後は出産、そして子育て。これは、当たり前すぎるほど当たり前の彼女の人生のセオリーだった。
ところがある日、突然彼女はこの"順番"に疑問を感じた。順番とは何か。そして、この順番に乗っかっている自分は何者かと。いろいろと考えた末、彼女は離婚した。周囲には、突然の出来事に映った。なんの不自由もない果報な身でありながら、何を血迷ったのかと中傷する人もいた。
「ずいぶん遠回りをしてしまったけれど、今から自分を知るのも悪いことではないわ。」
最終目的地までに、人間はいくつの旅をするのだろうか。まっすぐにそこへ行くことも可能なのに、なぜ人は寄り道をせざるを得ないのか。それは、何事においてもプロセスがあるからではないか。必要なプロセスを踏んでいなければ、より完全な結果を得ることが出来ない。その時は失敗のように見えたとしても、その先で待っている結果には必要かつ重要なプロセスなのではないか。世の中に、無意味な偶然はない。すべての偶然は必然に基づいている、と私は信じている。
「そうね。私は結婚して子供を産まなければ、本当の自分を知ることが出来なかったのかもしれないわ。」
私自身も、ふと旅に出ようと決めたのだった。ある日突然心に湧いたのだ。何故、私はここにいるんだろう。すべての支度は出来ているのにって。バーブはそれを聞いて、何度も大きく頷いた。次のステップとは、そんなふうに自然に湧き起こる感情のように知らされるのかもしれない。
私達はそれぞれ旅して回った地点の話をした。私がセドナをニューエイジな場所で、あそこではパワーらしきものは何も感じなかった。感じたものは、ただの磁気を帯びた赤土だけだった。というと、バーブの表情が硬くなった。
「もしかして、あなたは世の中で説明できないことを否定するタイプ?」
そんなことはないよ。不思議は好きだし、信じてもいる。ただ、大抵の不思議は科学的に説明がつくものなんではないかな。科学的に説明がつくものに、迷信的な神秘さを追求するのは愚かなことに思える。だけど、科学にどれだけの理論があったとしても、私が本能的に感じることまでは説明がつくまい。だから、私は私の感覚を信じている。
彼女は、自分の中で説明のつかない感情を話し始めた。
「その時、その光景を見て、えも言われぬ郷愁感に襲われたの。見たこともない景色なのに。」
そういったデジャヴ的感覚について、既に科学が証明している脳内の働きについては口にしなかった。ただ、私は彼女が言ってもらいたいと思っている言葉を口にした。
「前世と何か関係があるのかもしれませんね。」
実は、私は少し本気でこの言葉を言っていた。デジャヴが、前世と因縁深い何かに対して魂が反応する現象だとすると、それはなかなか素敵なことだとは思わないか。私だって、イエローストーン川を見た時、体の奥深くから何かが何かを伝えたがっている感覚を覚えたことがある。深層にいる自分自身が、得たいの知れない言葉で、説明のつかない感情を吼えようとしていた。これが、前世と関係があるかどうかはわからないけど。
「そう、”私は以前、ここにいた”って感覚よ!そうだわ!」
前世という言葉が気に入ったバーブが、手を叩いた。
私達はその後も盛り上がり、話しつづけ、気がついたら眠りこけていた。
私が起きたとき、バーブは既にベッドにはいなかった。昨晩、彼女は今日もここへ宿泊すると言っていた。私は、今日出発するかどうか、まだ迷っている最中だった。
もそもそと寝袋から出ると、二人の男が出口付近で旅支度を整えていた。髭面の大男達。外で歯を磨いていると、歯磨き粉をくれ、と片方の男がやってきた。話をしていると、もう一人の男もやってきて、寒い中しばらく立ち話をした。二人は兄弟ということだった。
「はは。それで、君は一人でアメリカを一周しているってわけ?」
そう。そういうこと。
「まったくクレイジーだぜ。」
男達は笑った。アメリカ一周って、それほどクレイジーなことなのかな。クレイジーという彼らがおかしくて、私も思わず笑った。
パラパラと周囲で音がした。霰(あられ)だった。私達は慌てて建物に入った。寒いわけだ。これから西に行くにはロッキー山脈を越えなくちゃいけない。雪が積もると、何日かここで足留めを食らうことになるな。
私は、今日出発することに決めた。出発前に、町を見学しておきたかった。
身支度を整えると、町にあるセント・イグナシャス教会へ行った。もしかしたらバーブがここにいるかもしれないと思ったが、彼女はいなかった。教会内は張り詰めた空気が流れていた。この聖なる空間で、祈りを捧げるネイティブアメリカンを想像すると、少し違和感を感じてしまった。目の前に絵描かれた聖母マリアは、ネイティブアメリカンの民族衣装を身に纏った黒髪の女性だった。彼らには彼らの神がいたであろうに。私達が仏教を受け入れたように、彼らもまた八百万の神を忘れ、新しい信仰を受け入れたのだろうか。それでも、八百万の精霊達と彼らを切り離すことなんて、出来ないのだろうけれど。
ホステルに戻って出発の準備をしている間も、バーブは戻ってきていなかった。私はバーブのベッドに書置きを残した。
『昨日の夜は、いいお話をありがとう。いつか、どこかできっと会えることを願って。−non−』
運命の糸を信じたかったから、あえて住所やメールアドレスは記さなかった。いつか会えると信じていれば、必ずどこかで会えるものだ。アメリカが広いなどということは、この際あまり関係ないのだ。
私は、ドイツ訛りの英語を話す女の人のところへ、鍵を返しに行った。どうもお世話になりました。寒くなりそうなので、もう出発することにします。どうもありがとうございました。
「そう。残念だわ。気をつけて...。」
車まで引き返そうとしたが、ふと、ここが"スピリチュアルな体験が出来る"と謳っていることを思い出した。あの、あれは一体どういう意味なんですか?
「この自然よ!都会の喧騒を逃れて、静かな自然に身を任せ、自分を取り戻すってことよ。旅先で誰かと会ったら、ぜひここのホステルのことを話してあげてね。」
ああ、そういうこと。私は、ほんの少し脱力感に襲われながら、彼女に手を振った。
今日はロッキー山脈を越えて、西に行く。その先にはシアトルがある。13年前、16歳の私が初めてアメリカの地を踏んだ、あのシアトルだ。そこには、私を迎え入れててくれたホストファミリーが住んでいる。13年ぶりの再会だ。
いつのまにか、霰(あられ)は雨に変わっていた。荷物をトランクに積むと、エンジンをかけてワイパーを動かした。フロントガラスはちょっと凍りかかっていた。ロッキー山脈で、道路が凍結していないといいな。
ゆっくりとアクセルを踏む。ホステルが小さくなって行く。バーブに直接さよならを言えなかったことで、胸がちょっと痛んだ。
いつか、どこかで会えるといいな。
14日 泣きそうになった話
私は、イエローストーン国立公園のとある駐車場で、手製のお弁当を食べていた。昨夜は共同キッチン付きのロッジへ宿泊したので、昨日のうちにお弁当を作っておいたのだ。 朝からずっと回って、もうお昼を過ぎたというのに、まだまだ公園全部を回りきれていなかった。今夜は、セント・イグナシャス(St. Ignatius)のユースホステルに宿泊するつもりだった。聞いた話では、ここからさほど遠くないらしい。ホステルへは、3時くらいから走り始めればいい、それまでゆっくりしていこう、と気楽に考えた。
国立公園は素晴らしかった。一部、閉鎖していて見ることが出来ないところもあったけれど、かなりの広範囲をまわれたのではないかと思う。赤や黄色や青に染まった虹色の間欠泉や、高い崖から流れる大きな滝などを見下ろすことも出来た。ニュージーランドのホストファミリーのために、絵葉書を数枚買った。光りが反射する川で、水を飲むヌーの姿やこちらをじっと見つめているエルクの姿などを収めた絵葉書だ。これは、何よりいいお土産になるだろう。
もうすぐ3時だ。国立公園の入場料は20ドル。一週間有効のレシートがたった2日間で不用となるとはね。もっとここにいられるといいんだけど。
私は名残惜しく思いながらも、イエローストーンの北口の門を出た。
I-90をしばらく西に走り、途中を北に曲がると今日の目的地、セント・イグナシャスだ。ここから2時間くらいかな。ホステルは、セント・イグナシャスのネイティブアメリカン居住区の中にある。
念のためホステルへ電話をして、オープンしているか空き部屋があるかどうかを聞いてみよう。ホステルにはキッチンも付いているっていうし、今夜も自炊ができる。まぁ、もしもやってなくても、大きな街らしいからモーテルくらいはあるだろう。そんなに心配いらないさ。
いろいろ思いを巡らせながら、今夜のホステルに電話をする。しかし、留守番電話が応答してきた。すごいドイツ訛りの英語だなぁ。んー?あ、でもちゃんとオープンしているようだよ。よしよし。メッセージは残さず、私は受話器を置いた。
私はI-90を軽快に走っていた。モンタナ州は人が少ないのだろうか。前後には、車が一台も見えない。調子に乗ってスピードを出してしまわないように、気楽に走ろう。モンタナの牧場景色は、相変わらず平和そのものだった。あー、日が傾いてきて夕日が眩しい。後どれくらいかなぁ。パーキングエリアに車を停めて、地図で確認をする。おい、R-93に出るまでまだまだ先が長いじゃないか。誰だよ、近くって言ったの。
私はちょっとスピードを上げた。知らない街の暗がりで、ホステルを探すのなんてごめんだった。オレンジ色の夕日が、左真横から容赦なくサングラスの隙間に差し込んでくる。道路は、逢魔時を迎え、ますます見辛くなってきた。くそぅ。
日が落ちるのは早い。小さい時に、嫌というほどそれを味わった。日が落ちる前に帰ってくるのよと、きつく母親に言われた子供の頃。お寺の鐘が鳴ってから走ってお家に帰っても、太陽が沈む早さにはいつも勝てなかった。そう、太陽が沈むのはとても早いのだ。
私は更にアクセルを踏んだ。なんとしても、暗くなる前にセント・イグナシャスに到着していたい。しかし、太陽の傾き方からするとそれは不可能のように思われた。私はアクセルを更に踏んだ。のんびりしている場合じゃない。どんどん先に進まないと、真っ暗になってしまう。制限速度を20マイル以上オーバーしているが、気にしている余裕はなかった。小さなマーキュリーがひーひー言ってる。私は鬼になった。目付きは変わり、口を真一文字に結び、上目遣いに前方を睨む。私はレーサー。鬼のレーサー。小さなレーサー。
モンタナ州は以前、一時的に高速道路の制限速度を廃止したことがある。大体、こんなに車が少なくてまっすぐな道なんだもん。制限速度なんか、あってもなくてもおんなじだよ。モンタナの人はのんびりとしていて、猛スピードで走り去る車を見つけるのはたいへんだった。しかし、全米の走り屋達がその特異な交通法規に目をつけ、各地から車の持てる限界の速度に挑戦しようと集まって来るようになった。とたんに、モンタナ州では死亡事故が続出した。州はやむなく、速度に制限をつけることにしたんだって。
そんなモンタナ州だから、猛スピードな私を寛大に許してくれるに違いない。というか、ほとんど制限速度のことで警察が働くようなことはあるまい。と高をくくっていたら、前方にパトカーが見えた。ひゅーん...一気に速度を落とす私。ええ、なんとでも言ってください。私は超小心者です。日本では、オービスを発見した瞬間にメロメロになるほどでした。
思わぬところで邪魔が入った。これではセント・イグナシャスまで大急ぎで行けないじゃないか。焦らされるような気持ちでハンドルを握る。くそぅ。
ようやくパトカーが前方から消え去った。さようなら、おまわりさん。もう会うこともないでしょう。私は再びアクセルを強く踏んだ。もうすぐR-93に乗るため、高速道路を降りなくてはいけない。R-93に入れば、あとはまっすぐ北に向かうだけなので、簡単に到着することが出来るだろう。
もう、逢魔時もとっくに過ぎた。じわじわと藍色の夜がやってこようとしている。高速から降りて、大き目のガソリンスタンドで給油をした。高速道路沿いの水銀灯と、ガソリンスタンドのオレンジ色した電灯が眩しかった。ああ、お腹が空いた。今日のお弁当は、昨日の夕飯の残り物だったので、中途半端に量が少なかったのだ。でもさ、私は大丈夫だけど、ハニー三世(現在の車の源氏名)がお腹を空かせるとまったく動かなくなってしまうから、しっかり食べさせてあげないと。
ハニーを満腹にさせ、私は車に乗り込んだ。辺りはすっかり暗くなっていた。
R-93は細い二車線道路だった。セント・イグナシャスまでは延々と上り坂で、パワー不足の車が前方にいると、のろのろ運転になってしまう。パワーのある車なら、とっとと追い越しが出来るのに、ハニーは小さなエンジンなので思いきって追い越すことが出来ない。またしても、焦らされる気分でハンドルを握ることになった。路上の水銀灯に、小さな羽虫がちらちら飛んでいるのが見えた。ああ、セント・イグナシャスって遠いなぁ...。
時計を見ると、7時過ぎていた。遠い。遠く感じる。お腹が空いてるからか。疲れてるからか。もういいよ、今夜は断念して、どこか別のモーテルへ泊まろうよ。そう思っても、辺りは闇が広がるばかりで、モーテルのネオンなど一切見えなかった。ここで野宿。それも考えた。でも、車を駐車する場所すら見当たらない。道路は狭いのだ。くそぅ。
辺りは高台となり、闇の中に牧場が広がっているようだった。丘を覗くと、その向こうに小さな街の夜景が広がった。あれは、どこの町だろう。いずれにせよ、私が向かっている街ではないはずだった。セント・イグナシャスは大きな街で、高台にあるはずだからだ。しかし、行けども行けども前方は闇が広がるばかりだ。本当にこの先に大きな街があるんだろうか。
『セント・イグナシャス あと5miles』
という看板が出てきた。よっしゃー!あと5マイル!がんばるぞー!そしたら飯だー!
ほどなく灯りが見えてきた。予想外に水銀灯の数が少なかった。ど、どこが街の入り口なのかなー。あれ、モーテルって角にある一軒だけなのかな。それも、ほとんど如何わしいとしか見えないネオンのモーテル。他にモーテルは見当たらない。夜の8時過ぎ。町のほとんどの店が閉まっていた。かろうじて、ガソリンスタンドの売店が開いている。私は、迷わずそこへ車を停め、店内へと入っていった。
ちりちりの黒髪を後ろに束ねた、巨漢の男がレジに立っていた。
「ハイ。」
この辺りにホステルがあるはずなんだけど、知りませんか?
男は黙って地図を広げた。
「この店がここ。この前を通っている道がこれだ。わかるね?ずっと坂を上がっていって、最初の角を左に曲がるんだ。そうすると大きな看板が見えるよ。看板のすぐ後ろに道があるから、そこへ入っていけば受付がある。わかりにくい道だから、見落とさないように気をつけて。」
愛想が良いとは言いがたかったが、このネイティブアメリカンのお兄さんは丁寧に説明をしてくれた。世間では、ネイティブアメリカンは閉鎖的だと見られることがあるようだが、本当はそうではないと思う。彼らはいつでも心を開いている。彼らの一族を守るための秘密に触れようとすれば、拒絶もするだろう。だが、そんなタブーを犯さなければ、彼らはいつだって私達を受け入れてくれる。
ありがとう、と弱々しく手を挙げて、そこを去った。
お兄さんに言われたとおりの道順で走ったが、何度も道を見落として、町を何周もしてしまった。ようやく、ホステルを見つけたときには、8時半になっていた。ホステルは、だだっ広い平原の上にぽつぽつと建てられていた。キャンピングカーが何台か駐車しており、長屋のような施設には、明らかに人が住んでいる様子だった。その向こうに、少し離れた形で一軒の平屋が見えた。適当な場所に車を停めて、受付を探した。空気は冷たく、私は震えた。お腹が空いた。受付は閉まっていた。灯りも点いていなかった。『すぐに戻ります』という紙が貼ってあったが、恐らくこれはずーっと貼ったままになっているもので、信用性は極めて少ないと思われた。どうしよう。やっと辿り着いたのに、目の前にベッドのある建物があるのに、私はここへ入れないでいる...。
しばらく外で震えながら人が通るのを待っていたが、埒があかないので、誰かが住んでいると思われる住居のドアを叩いてみた。誰も出てこない。人影は見えるのになぁ。ドンドン!頼むー!出てきてくれー!
ガチャッ!
痩せた、化粧気のない中年女性が出てきた。笑顔だ。よかった。
あの、私、ここに泊まりたいんですけど、どこへ話をしたらいいんでしょう?
「相部屋がいいのよね?一泊15ドルですよ。」
彼女は留守番電話と同じ、ドイツ訛りだった。
はい、相部屋でいいです。自炊も出来るんですよね?「ええ、ここにナイスなキッチンがあるのよ。」
女性は先ほどの受付の場所まで私を案内した。受付の建物は、ほとんど掘建て小屋のサイズだった。彼女はそこの裏手に回り、鍵を開けた。ぷんと埃の匂いがした。そこには洗濯機と乾燥機が別々に並んでいた。で、キッチンは?
「大きなシンクもあります。」
洗濯用の深いシンクを指差した。そうか。洗い物はそこで洗うんだね。で、キッチンは?
「えーっと...これです。よいしょっ。」
と彼女が下の棚から取り出したのは、小さな鍋用コンロだった。おい、ナイスなキッチンってこれかい。
「何度使ってもいいです。」
..................あの、近くにレストランはありますか?
「あるけど、もう閉まっちゃってるかもしれないわ。電話で確認しましょう。」
私は絶望的な気分になった。空腹でうまく頭も回らなかった。
彼女が確認すると、レストランは私を待っていてくれるという。嬉しいことだ。急いで私はレストランへ向かうことにした。が。「ちょっと待って。お部屋に案内するから。」
わかった。もう、どうにでもしてくれ。
彼女は私を少し離れた場所の建物まで案内した。建物の西側が全面的にガラス張りとなっていて、建物の壁は土で出来ていた。壁の裏は古タイヤという造りだ。
「昼間の太陽の熱をこの壁が吸収してくれるので、この部屋はいつまでたっても暖かいのです。夏は、太陽の向きが変わって陽射しが差し込まないので、壁はひんやりとしていて、室内はとても涼しいのです。」
と、彼女は自慢そうに言った。そういえば、このホステルの売りは、こうした特殊な建物と"スピリチュアルな体験が出来る"だったな。彼女は、簡単に同室の女性一人と男性二人に私を紹介すると、さっさと消えて行った。私も、彼らに軽く挨拶して、夕飯を食べに行った。
ともあれ、夕飯にはありつけた。空腹のあまり、食べ過ぎてしまったけれど。
13日 導かれた場所
私は何度か渡米経験がある。現地で友人と会うことはあっても、日本とアメリカの往復は一人のことが多い。 何度目かのアメリカ帰りでのこと。飛行機の座席で、私の隣にロサンジェルス在住のフィリピン人のおじいさんが座ったことがあった。これから娘夫婦と孫と一緒に、フィリピンへ一時帰国するのだという。
おじいさんは私にいろいろとお話をしてくれた。戦後にアメリカへ移り住んだこと。最初は仕事も見つからず、辛かったこと。言葉の壁。何十年か経って、ふと気がつくと、ロサンジェルスにはたくさんのアジア人が移住してきていたこと。
「あなたもアメリカで暮せますよ。仕事はすぐ見つかりますよ。ロサンジェルスだったら、寂しくないですよ。」
おじいさんはにっこり微笑んだ。私はほんの一瞬、アメリカに移住する自分を夢見た。それは、大きなチャレンジだと思った。でも、私が目指しているものではない、とすぐに思いなおした。
「私はアメリカ中が見たいんです。いつか、アメリカを自分一人で旅して回るつもりです。」
そう言うと、おじいさんは手で何かを書きたいという素振りをした。私は急いでメモとペンを渡した。おじいさんは、メモに"Yellowstone"と書いた。そして、その文字を指で叩きながら、
「ここへ行くといいよ。」
と教えてくれた。アメリカ中を見たいなら、ここ抜きでは話にならんよ、と言った。素晴らしいところだよ。ぜひ見てごらん、と。おじいさんは、イエローストーン国立公園の素晴らしさを、何度も文字を指で叩きながら、教えてくれた。私は、旅をするときには、きっとそこへ行きます、と約束した。
辺りは水気のない黄土色の丘が広がっていた。ゆっくりと進んでいるのに土埃が上がる。それほどにぎやかではない、土産物屋の通りを抜けると、もうすぐイエローストーン国立公園の北口入り口だった。いよいよ、あのおじいさんが薦めてくれた場所へ到着だ。おじいさんとはあれっきりだけど、今こそおじいさんと心が繋がった気分だった。
北門を抜ける。川が流れ、その向こうに黄色い荒野が広がる。しばらく行くと、今度は木々が増えてきて、両脇はすっかり森林になってしまった。窓を開ける。チチチ、と鳥の声が聞こえた。森の空気が室内に入り込んでくる。いい匂い。
イエローストーン国立公園は、世界で最初に国立公園として認定された場所である。なんと、128年の歴史を持つ公園だ。そして、とにかく広い!一日じゃとても回りきれない。今回、私は2日間かけて、この公園を回るつもりであった。
森の間を川はとめどなく流れ、きらきらとその水面を輝かせていた。遠くからでも川底が透けて見える。瑞々しい景色だった。思わず車を停めて、じっくり景色を楽しんだ。ん?あれ?なんだ?あの煙...。浅瀬から立ち上る白い煙。ちょっと茂みに入って、煙に近づく。おお、なんと!湯が湧いているではないかーーー。ポコポコと控えめに湧いてるぞー。お?なんと向こうにも!お湯が湧いてる川っていうと、なんだかニュージーランドのワイカトリバーを思い出してしまうよ。あ!あっちにも!私は浅瀬から上がる煙を頼りに、茂みを突っ切った。ちょっと川を飛び越えて、煙のすぐ傍まで行ってみる。水の下で、穴が開いてた。穴がよく覗けるように、しゃがんでお湯を観察した。穴の付近は錆付いてた。穴から小さな銀色の空気の球が上がってくる。恐る恐る川に指を入れてみた。...すごい!お湯だ!!
私は再び車に乗り込み、南へと車を走らせた。
やがて、ホテルの建つビジターセンター付近へ到着した。ビジターセンターに車を停めようと思ったその時、真っ白で平らな丘に釘づけになった。まるで儀式でも行うかのような白い平らな丘。その丘から、またもや湯気が立ち上っているのだ!ゆらゆらと、滑るように丘から煙が出ている!!私はハンドルを切った。心の中で、「イエローストーンって、こういうところだったのぉーーー!?」と叫んでいた。私の予想は違っていた。緑の深い大自然の中、巨大な黄色い石が名物となっている、そんな公園だと思っていた。そういえば、黄色い石の案内なんて、どのブローシャにも書かれていなかった。そうか、イエローストーンって間欠泉だらけのところだったんだー。知らなかった...。今やっと、おじいさんが薦めていたものが具体的な景色となった。
車から降りて、祭壇型の丘に近づいた。あっちもこっちも、湯気が立ち上っている。鼻をつく硫黄の匂い。大涌谷温泉もまっさおな匂いだ。ふーん、そうかー、そうかー。私は何度も納得をして、再び車に乗り込んだ。
どこへ行っても、間欠泉。粘土のように濁った熱湯が、大きな穴の中で洗濯機のように回っているのもあったし、サンゴ礁の海みたいに澄んだ、目の覚めるようなブルーのものもあったし、鯨の潮吹きのようにビューッとお湯が吹き上がる激しいものまで、間欠泉の形はさまざまだ。小さな間欠泉には、獣の足跡や糞が残っていた。夜になると、動物達がこっそりとお湯に浸かりに来るのかなぁ。動物が温泉に浸かるってのに、なんでここには温泉宿のひとつもないんだ?日本だったら、この辺り一帯は温泉街に早変わりだね。自然を壊すのはよくない。でも、見過ごすのもなんだぞ。こんなにジャカジャカお湯が出てるのに、誰もお湯に浸かれないなんてさ。日本人の私にとっては拷問だよ、拷問。隣に立っていた白人夫婦に、なんでお風呂に入れないのかなぁ?と聞いてみた。
「鉱泉は、時々人体に有毒なこともあるのよ。それに、いつどこで新たにお湯が吹き出てくるかわからないし、危険なのよ。」
それでも、以前は川とお湯が混ざり合った流れのところへ飛び込む人がいたらしい。とても危険なことだ、とおばさんに念を押された。うーむ。
私はずいぶん時間をかけて間欠泉巡りをした。煙と共に滾々と涌いてくる泉を見ていると、なんだか地球のエネルギーが充満しているように感じた。まるで、しょぼくれてた精神が、活き活きと蘇る気分だ。まさに、ここはエネルギーのるつぼ。力の滾る(たぎる)源なんだ。白い巨大な煙が、風に煽られて私に向かって来た。ボボボーッと、耳に風の音が轟いた。一瞬、私は雲の中に入ってしまったかのように、白い世界に包まれる。湿った空気を思いきり吸い込んだ。肺に運ばれた酸素が、私の手足の先までビリビリと送られるのがわかる。地球のエネルギーが、私の体中を巡っている!
昂揚した気分のまま、再び車に乗り込んだ。地図を見ながら、公園を巡る。静かな茂みに、鹿よりも一回り大きな動物、エルクの集団に出会った。イエローストーンでは、たくさんの種類の野生動物が生息している。むやみに近寄ってはならないし、餌をあげてもいけない。私は、エルクの子供をしばらく観察してから、再び走り始めた。
景色はやがて、湯煙のない平らな茂みの風景へと変わっていった。白い細い道をゆっくり走っていると、遠くに黒いものがたくさん見えた。そこから少し離れたところに、車が数台停まっていた。しかし、誰も車から降りている気配はない。すぐに私もその車の後ろに着くこととなった。左手を見ると、なんと、野生のバッファローの集団がいるではないか!タオスプエブロでは、「もはや野生のバッファローなどはいない。ほとんどが家畜となっている」、と聞いていた。それがどうだろう。今、私の目の前に、野生のバッファローが枯草を食べているではないか。小さな赤ちゃんバッファローが、母親の乳をねだっている。ああ、長閑な光景だ。こんな風景を見ていると、まだ地球は病んでいないんじゃないか、などと思いなおしてしまう。まだ、大切なものが残っている。ここに残っている。大事にされて残っている。もっとこういう場所が増えればいい。世界中で増えればいい。日本も、住宅地開発などに精をあげるのでなく、自然保護の意識に目覚めた方がいい。目先の大事なものより、100年後の大事なものに投資したほうがいい。人はいつ、長いレンジでの価値観が持てるのだろう。人はいつ、成熟した思考に辿り着くことが出来るのだろう。
気がつくと、空気が肌寒くなっていた。ああ、もう夕方だ。そろそろ宿探しをしないと。
私は西側の門へ向かった。
12日 "Welcome to the hotel California"
『リバー・ランズ・スルー・イット』という映画を見たことがあるだろうか。 今や世界で一番美しい体を持つ男として有名な、ブラッド・ピットが出演している作品である。私の場合、話題作だとは知らずにビデオで見たんだけど、あの映像の美しさ ― 川の流れ、反射する光り、そよぐ緑 ― に圧倒されたのを覚えている。
車から見える景色は、モンタナ州リビングストン(Livingston)に近づくにつれ、川が目立ってきた。道路沿いの川は太陽の光にキラキラしていて、川の土手沿いには、黄色く色づいた木々が立ち並んでいた。その向こうには、干草の積んである牧場が広がり、そしてその向こうには森がこんもりと横たわっていた。実に落ち着いた、静かな風景である。
リバー・ランズ・スルー・イットの舞台となったミズーラ(Missoula)は、都会化が進んでしまっていたので、撮影場所を変えてそこから200マイルほど東に位置するボーズマン(Bozeman)で撮影を行ったとか。あの美しい景色は、ボーズマン周辺を流れるギャラティンリバー(Gallatin River)だったのだなぁ。
今夜はリビングストン(Livinston)に宿を取って、明日はイエローストーン国立公園へ行くつもりだ。リビングストンは、ボーズマンより25マイルほど東にある。そろそろ宿に近づいてきた。辺りにモーテルとファーストフードのお店が見えてくる。
宿の前で車から降りると、雨の匂いが鼻をくすぐった。アスファルトの濡れた匂い。そして、湿った空気。小さな虫の声。雨が上がったばかりの田舎町。
お腹が空いていた私は、部屋に荷物を置くとすぐさま食事に出かけた。今日の食事は、ファーストフードだ。アメリカのファーストフードと言えば、マクドナルドが有名だ。しかし、今日はちょっと趣向を変えて、ディッパーズに行ってみよう。ディッパーズとは、マクドナルドと同じようなファーストフードのお店である。青地にオレンジの字で『Depper's』とSFちっくに書かれた看板を見ると、なんか度肝を抜くようなハンバーガーが出てくるような気がするじゃないか。ディッパーズは、モーテルから歩ける距離の場所にあった。
私はわくわくした気持ちで、大き目のハンバーガーとくりんくりんにカールしたフレンチフライ、そしてホットコーヒーを注文した。ハンバーガーの載っかったトレイを夕焼け向きのテーブルへ置き、薄紫色に光りを放つ空を見ながら、ポテトを食べた。うーん、マクドナルドと違う味だ。ちょっと脂っこくてクニクニする。ハンバーガーは肉が固く、ふにゃけた黄色いチーズと千切りのレタスがビチャビチャとした食感を醸し出していた。
空の紫が次第に濃くなってきた。
私は満腹になった。あまり好きな味ではなかった。納得できなかった。
空腹にまずいものを食べてしまったときほど後悔することはない。この満腹感を返すから、さっきの空腹感を返してくれ!と叫びたくなる。自責の念に駆られながらディッパーズを背にし、モーテルへの道へと戻った。モーテルの手前に、マクドナルドがあった。
私はそのまま躊躇することなくマクドナルドのドアを開けた。雪辱戦だ。チーズバーガーとポテトとアイスティをトレイに載せ、私は席に着いた。ハンバーガーをばくりと頬張る。この慣れ親しんだ匂い。続いてポテトを口に放りこむ。この気の利いた塩加減。アイスティをあの太いストローで啜る。この妙に抵抗力を感じずに口に入ってくる感覚。ああ、マクドナルドだなぁ。とびきり美味しいわけでもなく、死ぬほどまずいわけでもない、安定した味。他にも美味しいハンバーガー屋はいくつもあるけれど、毎回目新しい味にころころと変わることが多い。それはそれで楽しめるんだけど、ここに来ればこの味がある、というわけにはいかない。どんな未開の地へ出かけたとしても、マクドナルドがある限り、知っている味に出会えるわけだ。
ふと、レジに目をやる。
一人の男性がメニューを見上げながら、立っていた。ハリソン・フォードのような顔にメガネをかけ、小脇には新聞を抱えている。ビビビ!インテリ発見!!
私の心のアンテナが立った。
私はどういうわけだか、昔からメガネをかけた男性に弱い。私の知らないことを知っている男に弱い。どうして電子レンジで卵をチンしちゃいけないの?と聞いたら、即座に「それは黄身の部分と白身の部分の沸点が違うからだよ。」と答えられるような男に弱い。難しい本を常に読み、時事に強く、たまにピアノを弾き、料理の腕は天才的で、しびれるような低い声を持っていたら、もうイチコロである。(あんた、いつか結婚詐欺にあうよ。)今回は、久しぶりに新聞を抱えている男性を見てしまったため、容易にアンテナが立ってしまった。
私は、トレイを片付けるふりをして、持っている手帳をわざと落とし、拾うふりをして手帳を彼の足元まで蹴っ飛ばす。私の手帳を拾う彼。どうもありがとう、と受け取る私。今夜はどちらにお泊まりですか?え?同じモーテル?そうですね、私もこの辺のバーはよく知らないんですよ。明日はどちらまで?まぁ、同じ方向です。よければご一緒しませんか?云々...
イメージトレーニングはばっちりだったが、小心者の私はマクドナルド出口のドアを開けてしまっていた。弱虫、non。こんなんだから、大事な出会いも見逃すのよ。
私は更なる自責の念に駆られながら、歩き始めた。
彼は、窓際のテーブルに腰をかけ、新聞を広げていた。ぼーっと彼を見つめながら歩いて、はたと気がついた。モーテルと反対方向に歩いてるじゃん、私!!引き返すのは癪だったので、そのまま目の前のガソリンスタンドに入り、ATMでお金を下ろすことにした。お金を引き出していると、背の高い、ちょび髭をたくわえた店のおじさんが話しかけてきた。
「どこから来たの?」
日本です。
「コンニチワ!ニホン!アリガトウ!ジャネ!」
おじさんの口から、いきなり日本語の単語が飛び出てきた。こんな田舎で日本語を聞けるとは。一体、どこで覚えたの?
「ハリウッド映画だよ!」
おじさんはニコニコ顔である。そうかぁ。ハリウッド映画にも時々日本語が出てくることってあるもんね。それにしても、おじさん、いい耳してるよ。
「ありがとう。」
おじさんは満足げだった。
モーテルに戻ると、ロビーで見知らぬメキシコ人数人に話しかけられた。
「ヘイ!●×▽〜???」
んーーー?何言ってるのか、わかりませーん。
「●×▽〜???」
どうやら、「カリフォルニアから来たの?」と聞かれているようだ。彼らの英語は聞き取りにくかった。いいや、日本から来たんだよ、とだけ言い残すと、私は上の階へと上がって行った。
部屋に戻ると、たまった洗濯物を袋に詰めた。
ここはランドリーがあるから、イエローストーンに入る前に全部洗ってしまうんだ。
荷物を抱えて、階下のランドリーに向かった。しかし、無情にも洗濯機では、誰かのお洋服がぐるんぐるんと回っていた。
ふぅ、なんだかいろいろありすぎたな。
洗濯機を見つめている私の頭の中で、"Hotel California"のメロディがリピートし始めていた。
11日 いつか、点と点は線になる
この辺りは、真夏に来た方がいいのかもしれない。
そう気がついたのは、もうずいぶんモンタナ州へと近づいていた時だった。私は今、ノースダコタ州からモンタナ州へと西へ向かっている。
最初、この景色を見た時は、一体なんの野菜が植えられているんだろうと思った。運転しているので、じっと畑の作物を見ることは出来ない。それでも、勇気を振り絞って脇見運転をすると、一帯に広がるこの茶色い景色が、実はひまわり畑であることがわかったのだった。すごい、これが全部ひまわりなんだ。ずーっとずーっとずーっと続いているよ。もう花びらは落ちて、ひまわりの顔は地面に向いているけれど、これが全部満開だったら、それは見事な景色だと思うよ。青い空の下に、真黄色のひまわりの花が一面に広がるんだ。きれいだろうなぁ!
アメリカは本当に広い。大地も、空も、全部広い。ことにこの周辺では、見渡す限りの牧場とひまわり畑が広がるばかりだ。大きな建物なんか、ひとつもない。こんな大きな空間で育ったら、私もさぞかし大きく育っただろうなぁ。水槽の魚だって、池で育てれば大きくなるっていうもんね。
今、私の目の前に広がる牧場では、草が刈り取られ、丸められて円柱の形となって積み上げられていた。冬に向けての干草の準備だ。少し窓を開けると、ぷんと濃厚な草の匂いがした。干草の匂いだ。
円柱の形にまとめられた干草が、延々と続く牧場に点在している。
黄色と茶色と空色の世界。ああ、気分がいい。私はカーラジオをニューカントリーのチャンネルに合わせた。軽快なバイオリンとギターの音に小躍りしたくなっちゃう。音楽と外の景色がぴったしマッチしていた。
モンタナ州は、サンフランシスコの寿司屋で出会ったカメラマン、テリーのお勧めだった。彼はモンタナのどこかに小さな別荘を持っていた。
「やっぱりモンタナだよ。本当に美しいところだよ。フィッシングスポーツでも有名なところだよ。」
釣り具のパンフレットの撮影も手がけた彼だが、彼自身も釣りが大好きだ。あの人は、本当に自分の"好き"を仕事にしていた。好きと才能と収入が直結している、ラッキーな人だった。私が人生の目的に一歩足を前に踏み出した頃、彼と出会えたということは、実に不思議な縁だと思う。彼は、既に自身の人生の目的に向かって歩きつづけていた人で、夢と成功を手に入れてた。
いわば、出発点でゴールを垣間見た、という感じだろうか。いや、ゴールではないのかな。通過点かな。わからないな。人生の目的など、ひとつとは限らないし、ひとつの目的を取ったって、その手段もひとつとは限らないもん。どんな表現であれ、自分の存在の意味や生きているということを実感したい。この手に感じたい、手応えのある人生を。ともあれ、テリーの存在が、私とって大きな励みとなったことには間違いはなかった。
時空も場所も超えて、私はあの時のテリーと繋がっていた。なんだか不思議な気分。テリー自身は、まったく感じていないのだろうけれど。
R94はひたすら西に続いていた。
今夜の宿は、グレンダイブ(Glendive)にしよう。グレンダイブはモンタナ州にちょっと西に入ったところにある。ひまわり畑と牧場と、そこに点々と置かれた大きな干草を眺めながら、私はハンドルを握りつづけた。
ノースダコタとモンタナの州境に向かうとき、素朴な牧場景色から、いきなり荒々しいキャニオンの景色に一変した。
パーキングエリアの標識に、展望台のサインもついていたので思わずパーキングエリアに入ってしまった。これは、一見の価値があるよ。
パーキングエリアは、一人二人の旅行者がいるくらいで、とても静かだった。展望台に駆け寄ると、見事なパノラマ風景が広がった。灰色の縞模様の渓谷が、永遠とも思えるほど続いている。グランドキャニオンのように赤く荒涼とした景色ではなく、小さな丸い膨らみが重なり合うような景色が続いている。寒々しい、けれども圧巻させられる景色であった。どの膨らみも灰色で、小刻みな地層が露になっていた。いきなりこんな景色に変わるんだもの。びっくりしたなぁ。
キャニオンの向こうの空が、うっすらとオレンジ色になっているのが見えた。私は、写真に数枚景色をおさめると、再び車に乗り込んだ。
モンタナ州に入れば、グレンダイブはもうすぐだった。
10日 星空を追いかけて
私は今、巨大なスヌーピーのハリボテがステージの上で踊っているのを見ている。スヌーピーはいつもと同じニコニコした表情で左右に揺れていた。 なんなんだ、これは。
ディズニーが世界の一流なら、ハローキティちゃんはアジアの一流だ。では、スヌーピーの位置付けとは一体...?「亜流かな。」
と私はつぶやき、その場を立ち去ることにした。辺りには、遊園地にあるような揺れるアトラクションや高く上がるアトラクション、またはすごいスピードで走るアトラクションに小さな子供が歓声を上げていた。
私は、モール・オブ・アメリカ(Mall of America)という遊園地を併設した、巨大ショッピングモールに来ていた。ここへ来るまでに、イーガン(Eagan)からセントポール(St.Paul)やミネアポリス(Minneapolis)などの都会を高速道路から見物してきた。ここ、ブルーミントン(Bloomington)にあるモール・オブ・アメリカに辿り着くまでに、大きく左回りに遠回りをしたことになる。
本来、イーガンからモール・オブ・アメリカは、直線距離で5マイル(8キロ)くらい北西に位置し、車でおよそ20分〜30分といった近場である。
ミネソタ州(Minnesota)には、大きな川が二本流れている。ひとつは彼の有名なミシシッピ川で、もうひとつがミネソタ川だ。ミネソタの中心地である、ミネアポリスやセントポールには、それらの川の支流が高速道路沿いから眺めることができる。曲がりくねった川の両脇には、ぼんやりとした山吹色に色づいた木々が並び、その足元には枯草色の藪が茂っていた。流れはゆったりとしていて、水は緑色に見えた。カモが泳いでいたのだろうか、時折、水面にくさび型の水模様が見えた。その、あまりにも自然の色を湛えた景色の向こうに、銀色の高層ビルが聳え立っていた。まだ高い西日が反射して、美しかった。
そこを通りぬけ、ぐるりと回って、モール・オブ・アメリカへやってきたのである。
ここは、ミネソタ最大のメガショッピングモールである。インターネットでミネソタのことを調べようとすると、必ずこのモールの情報が目に飛び込んでくる。どこを調べてもここのことばかりが書かれているので、よほど有名なんだろうと思い、足を運んでみたのである。寒さを凌ぐためのジャケットも欲しかった。
しかし、広すぎて、どこを回ったら効率良く私好みのジャケットに出会えるのか、見当もつかなかった。とりあえず、どこかのブランドのキッズコーナーに行って、手頃なサイズを探した。やはり、私には子供服のサイズで十分だった。
紺色の布で、中側が赤のフリース地になっているジャケットを着てみた。サイズもぴったり。それになんとリバーシブル。ポケットもたくさんついてて便利そうだ。これなら暖かいし、いろんな小物をポケットに入れておくことも出来るぞ。例えば、リップクリームとかさ。(私は、唇が乾くと水疱ができてしまうので、リップクリームが欠かせない。)
ジャケットを持ってレジへ並ぼうとする。う、行列だ。行列マニアの私は、行列の先が何かがわかっていると、ぜんぜん並ぶ気になれない。行列とは、一体なんの行列か正体不明だからこそ、その行列に並びたくなるものなのだ。行き先がレジだなんて、断然この行列には面白みがない。以前、なんの行列だかまったくわからず並んでみたら、その先にプリクラがあるのがわかって逃げ出したことがある。私は、未だにプリクラ経験がない。自分の顔がたくさんのシールになって出てくるなんて、想像しただけで鳥肌が立つ。友人にあげた私のプリクラが、魔よけとしてプレミアム付きで売り出されでもしたら堪らない。宣伝文句に、"サイババと同じ効果!"とか書かれても、ぜんぜん嬉しくない。まぁ、そんな心配、まったく無用なんだろうけどさ。(無用過ぎだよ。)
ぶつくさ言いながらでも、なんとかジャケットが手に入った。あとは帰るだけだ。
モールには、人が溢れていた。一体、どこからこんなにたくさんの人がやってくるのだろうか。アジア系のファミリーもかなり来ていた。皆、いい服を着て、ニコニコしていた。
私はストレンジャーだった。ミネソタは都会だった。少なくとも、私にとっては都会だった。ミネアポリスやセントポールは、私には異国だった。東京で出会った、あのミネソタ出身の英会話講師がいれば、もっとミネソタを堪能することが出来たかもしれないな。彼がいたら、あの川のほとりまで行く方法を知っていたかもしれない。
帰る頃には、辺りはほんのりと薄暗くなり始めていた。
宿の駐車場に着いて、私は車から降りて空を見上げた。道路沿いの燈火に負けて、星がよく見えなかった。また今度、ミネソタへはゆっくり来てみよう。今の私に、灯りの多いところは不似合いだ。
なんだか、満点の星空が見たくなった。
明日は、更に西へ進もう。