August in U.S.A.

8月(後編)

13日   14日  19日   20日  24日  24日(+)  25日  30日  31日
 

31日 地球の裂け目を見た
 
16歳のとき、グランドキャニオン(Grand Canyon)は、ずいぶん遠いところに思えた。一度は見るとよい、と言われても、それが現実になるのは、遠い先のことのように感じていた。

そして今、私はグランドキャニオンの絶壁に立ち、その雄大な姿を見下ろしていた。

夕暮れ時のグランドキャニオンは、オレンジ色に染まって、それはそれは美しいという話だった。あいにく、天候に恵まれず、曇り空で夕日どころではなかった。ブルーグレイの重苦しい空の下に広がる、巨大な渓谷。その激しくも雄大な景色は、"地球"を感じずにはいられない。地球の裂け目から吹き上げる風が、私の髪を靡かす。太古の昔から、この風は吹きつづけている。何億年もかけて、巨大な大地がじりじりと動き、ついに大地が二つに割れたとき、地球はどんな叫び声を上げたのだろうか。

今まで、どれほどの人間が、この深くて巨大な地球のクレバスを見下ろしたのだろう。どんな思いで見下ろしたのだろう。1,000年の昔に逆戻ったとしても、この雄大な姿に変化はあるのだろうか。自然の中で流れる時はあまりに長い。私達の生命に流れる100年という年月は、彼らの1日にも及ばないのだ。この地に文明を運ぶ前から、依然としてこの姿は太陽と月の下に存在していた。

私は、果てしなく続く渓谷と、不毛の景色に、途方もない歴史を感じた。

そろそろ、東の空から夜がやってくる。
私は暗くなりつつある遠くを見つめた。重苦しい雨雲が、平らなグランドキャニオンの大地の真上に立ち込めている。西の空はぼんやりとオレンジ色に輝き、雲と大地は驟雨でつながっていた。東の空は既に暗く、紫色の雲と大地の間に稲妻が走っているのが見える。遠くに光る稲妻は美しく、私は生命の危機など感じなくてもよいことに安堵した

私はカメラを手にして、その美しい落雷の瞬間にシャッターを切った。

ピカッ!ゴロゴロー...カシャッ
ピカッ!ゴロゴロゴロー..............カシャッ

青白く光る稲妻は一瞬だった。目の前に広がる景色の、どこに落ちるかわからない稲妻。私はカメラを構えて、雲の下に稲妻が光るのを待った。

ピカッ!あ、光った、撮らなくちゃ。
...カシャッ

ピカッ!あ、また光った。
...カシャッ

どうもタイミングが合わない。
そのうち勘に任せてシャッターを切ってみたが、無駄だった。
隣で同じように稲妻を眺めていたフランス人のカップルに笑われた。

8月31日のフィルムは、ただの薄暗闇しか写っていないことだろう。

明日は空からグランドキャニオンを見下ろす予定だ。

(つづく)



30日 死ぬかと思った話
 
Bryce Canyon(ブライスキャニオン)は、ユタ州にある。
Bryce Canyon、Zion、Grand Canyonはユタ州の南西に集中しているCanyon地帯である。世界的に有名なGrand Canyon(グランドキャニオン)よりも北西に位置し、規模はGrand Canuyonに比べてだいぶ小ぶりである。しかし、その美しさは、Grand Canyonに引けを取らず、全米では有名な観光地となっている。

今日は、久しぶりに軽く歩くつもりだった。
Bryce Canyonには遊歩道があり、1時間半ほどのコースから用意されているとの話を聞いていた。私は軽くCanyonを散策するつもりだった。

Bryce Canyonに向かうまでの景色は、私の想像を裏切っていた。そもそも、アメリカの自然自体が、今のところ私の期待を裏切りつづけていた。カリフォルニアの砂漠。水気のない乾いた景色。ネバダの砂漠。乾燥した荒々しい景色。ユタ州あたりになると、緑が増えてくる。けれども、緑の隙間に見える地層は、やはり乾いた土の色をしていた。もっと、壮大な景色だと思っていた。もっと心安らぐ大自然があるのかと思っていた。ニュージーランドとは明らかに異なる景色であった。ニュージーランドの自然は、もっと瑞々しくて安らぎがある

Bryce Canyon付近になると、標高が高くなっていった。周囲の景色は山深くなり、赤い土の上に、ツンツンと杉の木が立っていた。赤い土は縞縞で、地層が剥き出しであった。

Bryce Canyonに入る前に、ビジターセンターに寄った。何か食べ物が置いてあったら、購入しようと思ったのだった。乾燥した気候なので、常に水は持っている。ビジターセンターに入ると、3人の職員が私を迎えてくれた。

"Hi. How can I help you?"
"Hi. How're you doing?"
"Hi. How are you?"

とりあえず、Good, thanks. と答えた。何か食べ物は置いてありますか?と尋ねるよりも先に、右側の中年男性が、「どこから来たの?」と聞いてきた。カリフォルニアからです、と答えると「どこ出身?」と聞いてきた。

日本です。」

と答えると、アメリカに住んでいるの?と聞かれた。アメリカにいると必ずこう聞かれる。さすが多国籍の国。いやいや、アメリカには住んでないよ。ちょっと前までニュージーランドに滞在していたんだけれどね。

100%日本人?

真中の女性が聞いてきた。そーです。100%きっぱり日本人です。

イタリア人の血は入ってない?」

右側の男性が尋ねる。おいおいおいおいおい。今までいろいろ言われてきた私だけれど、イタリア人はなかったなー。どうやったって、そうは見えないだろー。こんな平べったい顔つかまえてー

「いやー。混じりっけなしの日本人です。」(たぶん)

いいえ。違うわよ。先祖に必ずどこか別の国の血が混ざっているはずだわ。」

さすが血の入り混じった国。単一民族の島国では、思いつかない発想である。

「日本人は色が白くて、目が細いからなぁ。」(右側の男性)

「本当に混ざってない?Native Amricanの血とか...何かエスニックな血が。」(真中の女性)

おー、エスニック!つまり、私は南方系の顔だと。そういえば、よくフィリピン人と言われたりします。

「んんー。何か...他の...」

いいかげんにしなさい。」(裏手)

右側の男性が突っ込んだ。一番左側のおとなしい男性は、アクセントと顔つきからして北欧系であろう。

「僕なんかアジアの血が混ざっているんだよ。ははははー。」

最後の"はははははー"がなければ、一瞬信じてしまうところだった。禿てるから髪の色はわからないが、碧眼であるこの男性。妙に顔の彫りが浅いので、もしや、と思わせる。

「で、ところで何が入り用なんでしょうか。」

と3人に聞かれた。ええ、あの、何か食べ物があるかな、と思ったんです。
すると、棚から無料の非常食をくれた。カロリーの高そうなチョコバーなどの詰め合わせだった。小さな地図もくれた。地図を見る限り、散策道はくるりと軽く回るだけの単純な道のようだった。

ありがとう、と手をあげてビジターセンターを去った。外は晴天。レストランで腹ごしらえを済ませてから、Canyonに向かった。

Bryce Canyonは赤土の世界だった。赤土の絶壁の頂上には、人の形に見えなくもない、風化した土の塊が至る所に乱立していた。あれが自然の力によって作られたのかと思うと、大いなる自然の力の神秘さを感じずにいられない。焼けるような日差しから、サーモンピンクの鮮やかな絶壁の影に入ると、空気はいきなりひんやりとする。土に触る。軽く触れただけで、ボロボロと壁が崩れた。温かいと思っていた赤土は冷たかった。

赤土の壁、赤土の地面、赤土の上に立つ杉の木たち。
杉の木は、焦げていて、その周囲の葉はきつい日差しに当たって紫色に反射していた。目がおかしくなりそうだ。それにしても、なぜ隣り合わせた木でも、一方は焼け焦げた姿をしていて、一方はそうでないんだろう。あまりの熱さのせいで、木々が焦げたのだろうか。ここは異質の世界だった。からりと乾いた空気は、パラパラと降ったにわか雨も、すぐに乾かしてしまう。私は、自然への畏怖を感じながら、歩きつづけた。足元は崩れやすく、水路のように窪んだ道は乾ききっていた。

ふと、数匹のアリが歩いているのに気がついた。実は、私はアリが大好きなのである。アリを発見したら、観察せずにはいられない。以前、マレーシアで葉切りアリを発見して、どれくらいの顎の威力があるのかと指でつついてみたら、ザクッと噛まれてしまったことがある。やつの顎は強力で、ぴんと立てた指に体が垂直になるほどだった。引っ張っても、頭がちぎれそうになっても離れないのだ。しかし、今、私の目の前で、隊を引き連れて歩いている黒いアリは、日本でよく見かけるクロオオアリにそっくりだった。まさかこんな熱い気候のところにクロオオアリもいまい。アリはたくさんの亜種があるので、その名前のすべてを覚えるのは容易でない。私は調査隊のアリがこの辺りにいるのなら、コロニーも近くにあるかもしれないと、付近を調べた。

彼女達のコロニーは大きく、朽ちた倒木の中に作られていた。
入り口付近は、敵の侵入を防ぐためのアリがウロウロしている。一生懸命、巣から砂を運ぶアリ、遠くから餌となる小さな昆虫を運ぶアリ。とりわけ、魅力的なのは女王アリであるが、彼女はコロニーの奥で大事にされているので、お目に掛かることは出来ない。私は他にもコロニーはあるだろうか、と思いながら、上へ上がって行った。時々、調査隊を発見しては、足を止めて観察した。

私は愚かだった。
足元に注目しすぎていて、天候が変わったことに気がつかなかったのだ。
頂上へ到達する頃には、黒い雨雲が立ち込めていたというのに。

ぽつり、ぽつり、と大粒の雨が降り始めた。大粒の雨は、瞬く間に豪雨となった。見る見る乾いた赤土が湿っていく。濡れた土の匂いが、私を不安にさせた。崩れやすい赤土が、泥土へと変わっていく。くちょくちょして歩きづらい泥土を登り、ふと周囲を見渡す。

まっ平らの空間がそこにあった。所々に立つ木は散漫で、丸い空間が私を取り囲むだけだった。辺りを見回す。けれども、どこが道なのかわからない。どれも道に見えるし、どこにも道はないように見えた。私は道に迷ってしまった。今来た道も、どこだったのかと思わせるほど、平らな景色は私を混乱させた。

雨は激しく降りつづける。崖の向こうに広がる赤い景色。今、それは果てしなく、私を無力だと思わせた。どこまで行けば、私は帰れるんだろう。ここで迷ったら、本当に帰れない。アメリカは巨大なのである。私は、あまりにもこのBryce Canyonを甘く見ていたことに気がついた。たかが散歩道と思っていた。1時間半で帰れると思っていた。地図を信じていた。今、地図は役に立たなかった。地図が雨に濡れてボロボロになっていく。

そして、ついに、聞いてしまった。雷の音

私は心が縮み上がった。
標高の高いまっ平らな空間に、私が立っていたら、何が起こるだろう。山頂での雷は、上から下へ行くとは限らない。下から上へもいくし、横から横へといくこともある。私は出きるだけ安全な場所を探そうと焦った。雷雲がここからそうは遠くない空でゴロゴロいっている。私は横穴を探した。しかし、無情にも辺りは不毛な平らな景色だけが広がるだけであった。自分の身を隠す場所すらないところに来てしまった。遠い空を見る。
黒い雨雲が続いていた。雨が私の体温を奪っていく。雷の音がどんどん近づいてきた。私は、逃げなければならなかった。しかし、どちらに行ったらいいのかもわからなかった

とりあえず、藪の中へ逃げ込んだ。藪は雨をよけてくれない。それでも、雷に当たるよりはマシなのだ。木下は危ない。はた、と気がついた。私はまったく愚かである。今まで横目にしてきたあの焦げた木々たちは、落雷に当たった木だったのだ。見れば、至るところに焦げた木々がある。私が身を隠している藪でさえ焦げていた。つまり、このBryce Canyonは四方八方に雷が走る場所なのだ。私はあまりの恐ろしさに体が震えた。恐怖のために体が震えたのは、産まれて初めての経験だった。これは何に対する恐怖なのだろう。死ぬかもしれない。私は、死に直面している恐怖に震えているのだろうか。いや、そうではない。小さな、人の力ではどうすることも出来ない、自然の激しさに畏れを感じているのだ。大きな自然の中で、私はあまりにも無力だった。

冷たい雨に、どんどん体温は奪われていった。私は、最悪の事態を考える。行動食はある。水もある。もしも、一晩をここで過ごした場合、何が起こるだろうか。あまりにもこの遊歩道を甘く見ていたため、自分の名前をどこにも残してこなかった。そもそも、名前を記すためのノートなど、入り口には置かれてなかった。ビジターセンターの人達も、私が帰ってこなかったことなど知る由もないだろう。何より、私はこのCanyonに生息する動物のこともよく知らなかった。こんなところで一晩を過ごすのはあまりにも危険だった。気温がどれだけ下がるかも見当もつかない。何か、最善の策はないだろうか。私に出来る、最善のこと。私は震える手をもう一方の手で押さえながら考えた。太陽のない空では、西も東もわからない。

パリパリパリパリッ!!!!

私の頭上で、空が破れるような大きな音がした。激しい雨。恐い!!

私は雷の光とその音との感覚が、次第に近づいてきていることに気がついていた。つまり、雷との距離はそう遠くないことを示している。私の不安は的中した。表現しきれないほどの大きな音と共に、私の右肩の向こうで青白い稲妻が落ちた。

逃げよう、今すぐ!

私は走った。今来たと思われる方向へ。雷とは反対の方向へ。足元がどんなに悪くても、とにかく走った。遠く、出きるだけ、雷から離れるんだ。早く早く早く早く。私は走った。背後の雷から出きるだけ遠ざかるのだ。早く早く早く。雷雲よりも早く私は走れるだろうか。私は後ろを振り返りたくなかった。立ち止まりたくもなかった。走って走って、転ぶのも厭わずにとにかく走った。両脇に焦げた木が見えたとしても、かまわず走った。私は泣きたくなった

しばらく下って行くと、雨脚が弱まってきた。前方に青空が見えた。見覚えのあるアリのコロニーがあった。私は道に迷ってなかった。ちゃんと戻ることが出来た。雷は未だにゴロゴロいっていたけれど、目の前の青空が私の命を保証してくれているかのように見えた。私が歩いてきた道は、激しい川と化していた。泥水が流れて行くのを眺めながら、自然の激しさを目の当たりにした気持ちだった。

空気が暖かくなってきた。濡れた体もすぐ乾くだろう。
生きててよかった。死ななくてよかった

私は雲の切れ目に見える青い空を仰いだ。心は感謝の気持ちでいっぱいだった。
何に対しての感謝なのかは、わからないけれど。

(つづく)



25日 そして私はでぶになる
 
日本を去って以来、私の中で追い求めている味がある。
それは、ハッカクという中華の香辛料を利かせて揚げた鴨肉の味だ。塩味が効いてて、ハッカクの匂いのする鴨肉を白いご飯に乗せて食べたい。ニュージーランドでは、クライストチャーチにその味に近い鴨肉を出す中華屋があった。オークランドでは、『龍舟』(ドラゴンボート」)という店がおいしかった。アメリカでは、フェニックスにある香港料理がそれに近い味を出していた。

でも、今日はイタリア料理が食べたかった

日本は飽食である。私が日本にいた頃は、当たり前のように食べていたイタリア料理。にんにくが利いていて、量のたっぷりのスパゲティ。ニュージーランドでは、オークランド以外ではお目に掛かれない美味しい美味しいイタリア料理。Whangareiにもイタリンレストランはあるけれど、行ったことがない。美味しいという噂だ。

さて、国が変われば味も変わる。
アメリカはどうだろう。アメリカ人の好むイタリア料理の代表。それは、ミートボールスパゲティである。太い麺、何も手を加えていないであろうトマトソース、乾燥バジルの風味、そしてミートボール。ミートソースじゃなくて、ミートボール。全体的ににんにくの匂いはまったくしない。

サンフランシスコは小さな街のわりには、中華街、リトルイタリー(North Beach)、ジャパンタウンと集中的に民族街がある。いくら、トマトソースうどんのようなスパゲティを出すアメリカでも、いくらにゅう麺のように細くて柔らかい麺とふがいないホワイトソースのスパゲティを出すアメリカでも、リトルイタリーでは事情が違うのではないだろうか。イタリア人が住みつく町、リトルイタリー。イタリア人が通うイタリアンレストラン。アメリカ人の来ないレストラン。私は本物を出してくれるイタリアンレストランを探した。

それは、Taylor St.沿いにあった。Original Joe'sというイタリアンレストランである。(でも、ここはリトルイタリーからは遠かった)

イタリア人しか来ないという噂の店。昼間だというのに店の中は薄暗かった。カウンター席とボックス席がある。カウンターの向こうはオープンキッチンになっていた。

私は本当にお腹が空いていた。お腹が空いて気が狂いそうだった。食い物、誰か、食い物をくれーーーっ!!!私のお腹が叫んでいた。食うぞ。食ってやる。お金に糸目をつけずに食ってやる!!というわけで、この店でかかった金額は覚えていない。空腹状態の私はナイフのように危険であった。寄るもの触るもの、すべて切りつける勢いだ。

恰幅のいい、頬から顎にかけて短い髭が生やしたウェイターが、メニューを持ってきた。無愛想である。しかし、無愛想なだけで、物腰は丁寧である。

海外で暮らす上で、言葉の壁も然ることながら、英語のメニューには本当に苦労させられる。日本と違って、メニューに写真はなく、言葉だけで皿の内容が説明されているのだ。ボキャブルがなくては、想像も出来ない。私も、英語のメニューにはしばらく手間取っていたものだった。今回、私が手にしたメニューは英語とイタリア語が書かれていた。英語で理解することも可能だが、イタリア語をそれとなく目で追ってみると、知っている料理の名前がぽちぽちある。日本では、イタリア料理の名前が、そのままカタカナで表示されているから、聞きなれているのだ。日本語って素晴らしい。

私はお腹が空きすぎていて、メニューに載っているすべての料理が食べたくなってしまった。いいから全部持ってこーい!状態である。しかし、さすがにそれは全部食べきれないと思ったので、量が多そうでいかにもイタリアという料理を慎重に選ぶ。上から順にメニューを読む。カルパッチョなんかおいしそうだけど、そんなんじゃなくて、もっとガツンとくる食べ物が食べたいなぁー。うーん、カルボナーラ...でも、今ここで安易にクリームソースに逃げてしまっていいのだろうか。ここのレストランの味を知るなら、ミートソースだ...いやまて、そんな単純なメニューでお腹をいっぱいにはしたくはない。うーむ...お、ややや!『レバーステーキ』!!!すすす、すごくお腹がいっぱいになりそうだーーー。でも、これは伝統のイタリア料理ってわけじゃないなー。でも、た、食べたい!ふと、そのセット内容を見ると、「お好みによりスモールミートソーススパゲティ、温野菜ガーリック風味をお添えいたします。」と書いてある。これじゃん!!添え物のミートソーススパゲティでこの店の味は確認できるし、温野菜ガーリック風味でイタリアの味を満喫できる!!

私はウェイターを呼んで、これらを注文した。

量が多いですよ。

ウェイターに一言言われた。
なーに言ってやがんでぃ。こう見えても私は大食いなんだ。つべこべ言わずに持ってきやがれー。

「本当に量が多いんです。だから、メインのレバーステーキを見て、そしてまだ食べられると思うのだったら、スパゲティと野菜をお付けしますよ。それでどうですか?」

これは挑戦だと思った。
私は、ステーキを持ってこられる前から、スパゲティと温野菜を食べることを心に決めた。

まんじりとなく時間が過ぎていく。私の空腹感は頂点に達していた。しばらくすると、ウェイターが皿を持ってやってきた。

「さぁ、どうぞ。」

ドドーン!置かれたレバーステーキは、巨大であった。私には、それが優に500gはあるように見えた。おまけにパンまで付いている。これだけで十分だ。しかし、私はスパゲティと温野菜を食べると心に決めてしまったのだ。

「スパゲティと温野菜はどうs...」

ええ、お願いします。

私は即答した。ウェイターは片方の眉を釣り上げて、オーケーと言った。
ウェイターはすぐに温野菜とスパゲティを持ってきた。スパゲティは小皿に盛られてテーブルに置かれた。温野菜はテーブルでサーブしてくれた。

さぁ、食うぞ。
満腹中枢が刺激される前に、すべてを平らげなければ

皿には、大きなレバーステーキが二枚のせられていた。温野菜は、人参、ズッキーニ、ブロッコリ、その他いろいろな野菜が、ガーリックと一緒にソテーされている。とても美味である。ミートソーススパゲティ...うむ、土曜日の昼下がりになんとなく家で食べる味である。実に手の込んでいない味がする。シンプルでいい。私はこの味が好きだ。レバーは牛レバーであった。ジューシーなそれは、やはりガーリックの風味で仕上がっている。私はコショウを一振りしてから、手を休めずに食べつづけた。体の奥が、食べ物を欲している。ガツガツガツと私は食べつづけた。

実は、私は食べるのが遅い。よく噛むからだ。私はたんたんと同じリズムで食べつづける。しかし、あまりにも唐突に、それはやってきた。突然、苦しくなったのである。満腹感だ。しまった。食べ終わる前に、満腹中枢がやられてしまった。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。一口でも残せば、あのウェイターは、「ほれ見たことか。ふふふん。」という顔をするだろう。そんなことは許されないことであった。私はこの挑戦を受けてたち、最後まで食べ終わることで、勝利を得るつもりだった。一息つく。ふー。苦しい...でも、食べつづけるんだ。ガツガツ...ふー苦しい。でも、食べるんだ。ガツ...うー、死ぬー。でも、食べ終わるんだ。あと、三口。あと二口。..........うー、あと...あと...ひとく...ち...........。

カラン...。
私はナイフとフォークを皿に置いた。

完食である。

苦しかった。とても苦しかった。苦しくて、床でのた打ち回りたい気持ちだった。く、苦しい。た、助けてー。

ウェイターが空の皿を無言で持っていった。彼の背中に、敗北感を見た。あいつ、食ったよ。全部食っちまった。負けた。俺はお前に負けたよ。そう思っているに違いない。ここで、私のとんちがひらめいた!やっとギリギリで食べ終わったと思われるのも癪じゃないか?ここは一発、追加注文でもして度肝を抜かしてやろう。でも、私のお腹は既にパツンパツンに膨れ上がっている。

おい、これ以上、何を入れるというのだ、自分よ。もういい、よくやった。よくやったよ、自分。これ以上、自分の体を痛めつけるのはやめるんだ。

身体は魂の器だ。自分の体にちょうどよい量の食べ物と栄養を与えれば、魂の器はよいコンディションを保つことが出来る。だというのに、私は、自分の魂のための器に無理を強いていた。...やめよう。これ以上食べるのは。飲み物だけで十分だよ。今は飲み物すら、入らない状態だけど。

「ダブルエスプレッソをお願いします。」

苦しくて、エスプレッソも入らないくらい苦しかったけど、私は注文した。レギュラーコーヒーよりはカフェインは少ないが、多少のカフェインで、胃の消化活動は楽になるであろう。(← カフェインで胃酸が増えるからです) 体への思いやりだ。

ちびちびとエスプレッソを飲みながら、私は考えた。
今、私の胴体を輪切りにしたら、楕円系じゃなくて、きっとまん丸なんだろうなぁ。

(つづく)



24日(+) 最初の出会い Part 2
 
テリーのスタジオは、鮨萬から10分ほどドライブしたサンフランシスコの街中にあった。古いビルの入り口から暗くて急な階段を上がって行く。

テリーとダンが室内の電気をつけた。するとどうだろう。撮影機材や小道具、そしてスタジオの全体が顕れた。すごい!スタジオだ!撮影現場は、異質の世界だ。小さな撮影台の上には、切り取られたワンシーンがぽんと置いてあるように見えた。カメラの前だけが、違う世界。スタジオの横には、こぎれいなキッチンもついていた。キッチンの奥には、仕上がり前のスライドが蛍光灯の台の上に陳列されている。テリーはそのスライドを一つ一つ見せてくれた。そこに置いてあったものは、家電メーカーのパンフレットに使用されるもので、ホームビデオカメラとかテレビなどが無機質に映し出されていた。仕事だな、と思った。生活をするためにやっている仕事だ。その他にも、釣具メーカーのパンフレットの撮影もしているらしく、フライフィッシング用のつり竿とフライが写されたスライドもあった。パンフレットに有りがちなショットを蛍光灯を通して見るということが、一般には見ることの出来ない、特別なものを見ている気にさせた。見惚れている私に、テリーが中央のスタジオへ行こうと促した。

キッチンからスタジオへ行こうとする途中に、大きな写真が壁に飾られているのが目に入った。それは、古い野球シューズを正面からクローズアップした写真だった。左の靴は無造作に置かれ、右側の靴は裏返されている。他には何も写っていない。シンプルな構図のものだ。古びて所々皮が禿ている野球シューズ、裏返された靴底は擦り切れていて、スパイクには赤い土がこびりついている。

私は思わずその写真の前で足が止まってしまった

ある男が履いていた野球シューズ。その男の野球への情熱や青春、思い出が、汗と一緒にこの靴へ染み付いている。靴を見ているだけで、野球場での歓声や審判の声が聞こえてきそうだ。シンプルなこの写真は、ある男の無言のメモリアルで、私には、それが多くのことを語っているように思えた。

「私、この写真、好き。」

野球が好きなのかい?と聞かれた。うううん。野球には興味がないけど。私はこの写真についての感想を、思ったままに述べた。すると、テリーは心底嬉しそうに頷いた。

「実は、僕もこの写真が大好きなんだ。僕の撮った中でのベストだよ。君はわかってくれた。」

なんでも、このシューズはメジャーリーグの有名な選手の靴だったらしい。残念ながら、名前を言われても私にはわからなかった。実は、このテリー、メジャーリーグの公式カレンダーの撮影者なのだ。毎年、メジャーリーグのカレンダー撮影を手掛けている。テリーは他にもカレンダーに使用された写真を見せてくれた。バッドを握る手、きちんとたたまれたユニフォーム、サイン入りの土のついたボール、どれも魅力的な写真であったが、あの靴の写真が一番素敵に思えた。メジャーリーグファンの人がその名を聞けば、興奮してしまうような有名選手達。そんな彼らが、かつて所有していた物を撮影に使用していたようだが、あいにく私にはその貴重さがわからない。それでも、野球に人生を賭けた男達の情熱は、二次元のフィルムを通して熱く語られているのであった。
一枚一枚、写真をめくっていくうちに、ふと気がついたことがあった。

「わかった。あなた、野球が大好きなのね。」

ニヤリと笑うテリー。そして、自分の作品を見つめながら、そのとおり、これが僕の人生だ、と言った。

「あなたの夢はなんですか?」

思わずこう聞いた後、愚かな質問だったと後悔した。テリーの答えは明快だった。

「これが僕の夢だ。僕は夢を成し遂げた。今もそれを続けている。そして、これからもずっとそれをやり続ける。」

成功した男の横顔がそこにあった。
私も今、夢を追いかけてる。いつか手に入れようと、そこに向かって走っている。夢は夢では終わらない。夢は必ず手に入る。それを明示してくれたのが、テリーだった。テリーの存在に、私のやっていることは無駄ではないのだ、と励まされた。

何年かかったって、絶対諦めない。
私は夢に向かって、走り始めたばかりなのだ。

(つづく)



24日 最初の出会い Part 1
 
その寿司屋を出る時、「また来てね!」と言われた。私は、「また来ます。」と答えた。
言った言葉は守りたい。また来ますと言ったからには、また来るつもりだった。
だから、私は、再びあの寿司屋の暖簾をくぐった。

寿司屋の名前は、『鮨萬』。San Francisco Bush Streetにある。
さすが、カリフォルニアだなぁ、と感心したのは、寿司ネタの種類がたくさんあることだ。ニュージーランドにも寿司屋はあるが、まるで相談でもしているのか、というくらい同じメニューしかない。サーモン、アボカト、時々うなぎ。軍艦巻きのものがほとんどだけど、時々握り寿司も置いてある。それでも、ネタはサーモンとアボカトを中心としたものばかりである。海に囲まれた国だというのに、不思議なことだ。ちなみに、私はニュージーランドのカウンターのある寿司屋にはまだ行ったことがない。(オークランドにあるらしい)そこへ行けば、多少事情が違うのかもしれない。

さて、鮨萬にはカリフォルニア(?)名物のソフトシェルクラブの揚げ物(おつまみ)から鯛、ヒラメ、ウニ、イクラまで、なんでもござれという具合にメニューは充実している。鮨萬のマスター兼寿司シェフのヨシオカさんは、アメリカへ移り住んでから、今年で25年目。気さくなおしゃべりで、カウンターを盛り上げてくれる。

私はキリンビールを飲みながら、塩辛に舌鼓を打った。
マスターがカウンターの左手に座る、男性2人を紹介してくれた。彼らはここの常連だということだった。彼らもキリンビールを飲んでいる。お互いの名前を名乗って、乾杯だ。

ハンサムな中年男性の名前は、テリー。その奥に座る若手の男性は、ダンと名乗った。テリーとダンは叔父と甥の関係にある。

「テリーさんは有名な写真家なんだよ。本当に有名なんだよ。」

ほーぅ、また写真家かい?サンフランシスコだけに、そんな人が大勢いるのかもしれないなぁ。ダンはその助手をやっていて、今はまだ見習い中とのことだった。テリーは控え目に、そんなに有名じゃないよ、と言った。写真家というのは、それほど派手な仕事でもないから、有名になるっていうのとはちょっと違うもんね。

君はどうなの?と聞かれて、これから全米を旅する予定だと答えた。すると、彼は少し身を乗り出した。

「全部回るの?」

はい。出来るだけ多くの州を。

なんのために?

私は、物書きになりたいと思っているんです。私は、旅を通して出会った人達や経験したこと、思ったこと、感じたことを書き記したいと思っているんです。

すると、テリーが「まず」と人差し指を立てた。

「まず、第一に、君の英語はパーフェクトだ。そこが一番重要なことだ。言葉はこの国で、とても大事なことなんだ。それから、態度。いつも堂々としていなさい。ねずみのようにびくびくしていてはダメだ。その点に関しては、君は大丈夫そうだ。でもいいかい?ここはアメリカなんだ。とても危険な国なんだよ。自分の身は自分で守らなくちゃいけない。」

父に、人を信じていれば、大丈夫って言われました。

ノーノーノー!アメリカはそれほど甘い国じゃない。もしも誰かが殴りかかってきたらどうするんだい?」

うーん。殴られたら、困るなぁー。ほんとにそんな人いるのかなー。

「...これを取っておきなさい。」

テリーが、カウンターにスイスアーミーナイフを私に向けて滑らせた。分厚いスイスアーミーナイフは、テリーのぬくもりで温かかった。

「危険なときは、これを使いなさい。これが君を守ってくれるだろうから。」

えええーーー。これを使ったほうが、よっぽど危険なような気がするよー。どうかこんな物騒なものを使うことがありませんように。出来れば、自分を守るためになんか使いたくない代物だ。でも、ありがとう。見ず知らずの私に、こんな高価なものをくれるなんて。

しばらく話しているうちに、話の流れがテリーの仕事の話に変わった。

つい最近にも、新進の写真家と会った話をすると、「ふーん、その名前は知らないなぁ」とつぶやいた。その時感激した写真の話から、話題は"美"について発展していった。

私は、こねくりまわしてわけのわからなくなったものに、理屈をつけて、「これが美だ」と説明するのはおかしいと思っている。美しいものは美しい。理屈なんていらないのだ。美しいものは、誰が見ても美しい。海に沈む真っ赤な夕日を誰もが美しいと思うように、美しいものに説明などいらないのだ。わけのわからない美を理解できないということは、決して恥ずかしいことではない。人に感激を与えられない芸術など、一人よがりの自己満足にしか成り得ない。それを、「これはどういう意味があるのですか?」と作品に意味を求める人がいる。そして、それを得意になって説明する人がいる。甚だ滑稽なことである。芸術とは、美の表現なのである。美しいものは理屈なしに美しいのだ。

「僕のスタジオに来る?車でちょっと行ったところにあるんだ。」

これは、挑戦だろうか。 プロの写真家を目の前にして、美について語ってしまったことが、彼に火をつけてしまったのだろうか。そこまで言うなら、君の美への認識を確かめさせてもらおうか、と言っているに違いない。売られたケンカはもちろん買うさ。売られた挑戦だって、もちろん買っちゃうんだ。私には江戸っ子の血が流れてるんだからね。少しだけど。

我々は店を出ることにした。
もう夜更け近かった。

(# ちなみに、テリーが言った「君の英語はパーフェクトだ」という部分なのですが、あれは私があのセンテンスを何度となく人に話していたので、あの英語だけは完璧に話せるようになっていたのです。けっして私の英語はパーフェクトなんかじゃありません。#)

(つづく)



20日 説教オヤジ入ってる女
 
人生の中で、父に教わったことがある。

「人を信じなさい。そうすれば、騙されることはないから。」

騙されないために人を信じるのではない。人を信じれば、自分も信じてもらえるのだ、ということである。この言葉は非常に深い。私は、ここから多くのことを学んだ。人は、憎めば憎み返してくるし、微笑めば、微笑み返す。まさに、感情のやまびこ状態である。

私は自分に子供が出来たら、この言葉にもう一つ加えて伝えたいことがある。

「誠実でありなさい。そうすれば、恐れることは何もないから。」

誠実であることは難しい。時には、傷つくこともある。しかし、誠実であるということで、何に対しても強靭でいられる。難しいことだけれど、私は誠実であろうと、いつも思ってる。

ビクターと私は、ビクターの友達が働くアイリッシュパブでビールを飲んでいた。金曜日の夜ということもあって、おしゃれをした人達で店はにぎわっていた。ソファで酒を飲みながら語り合う人達、カウンターにもたれ掛かって、ビールを片手に大声で騒ぐ人達。私達も空いているソファを見つけて、腰をかけた。

ビクターは私に、"White lie"と"Black lie"のことを教えてくれた。いわゆる、良い嘘と悪い嘘である。人を不快にさせないためにつく嘘は、"White lie"。悪意のある嘘は、"Black lie"。酔っていたこともあって、私は猛烈にそれを反対した。

嘘は嘘だ。良いも悪いもない!
なんのために嘘をつくのか。自分のため?相手のため?正直に話した上で、相手が不愉快に思うのは仕方のないことだ。不快に思うこと自体は、相手の感情の処理次第である。突き詰めて考えると、相手を不快に思わせたくないというのは建前であって、本音を言うと、相手に嫌われたくないだけなのではないかと思えてくる。だとすると、それは自分の都合である。

すると、ビクターは「素直であることはいいことだよね」と言った。

素直と誠実は違う!ドン!
素直は相手のことを考えずに、とにかく自分の気持ちを正直に伝えてしまうことだ。そこにはなんの責任もない。だけど、誠実であるということは、そこに責任が発生する。自分の言っていることに誠実であること、相手に対して誠実であること。状況によっては、とても辛いことがある。それでも、嘘をつくよりはマシなのだ。嘘は相手を混乱させる。今後の信頼もなくなる。例え、それが良い嘘であったとしても。例えそれが、自分に対する嘘であっても。

傷つくことを恐れてはいけない。自分を大事にしすぎて、犠牲心を忘れた人間には、何も残らない。

誠実であるがために負う傷から学ぶことは大きい。
そこから学んで、一回りも二回りも大きな人間になれるのだ。
傷つくことを避けていては、何も学べない。

         ドン!

「なんでかわからないけど、レモンが目に入ったみたいだ。」

といって、眼鏡の下に指を入れて、ビクターは目を擦りはじめた。
涙がポロ、ポロとこぼれてる。

少し、熱くなりすぎた自分を反省した。

(つづく)



19日  Sweet Dream House
 
私はいつも食べ過ぎる。満腹中枢が刺激される前に、とにかく体の中に食べ物を詰め込んでしまうのだ。私は、おいしいものが大好きなのだ。おいしいと、いっぱい食べたくなってしまう。そして、満腹中枢が刺激される頃、私は苦しくて動けなくなってしまうのだ。全てのエネルギーが、消化運動に参加してしまうからだ。ああ苦しい。今夜も、私は苦しかった

「散歩にでも出ようか」

苦しくて床でもがいている私を見下ろしながら、ビクターが言った。腹ごなしが必要だ。そう、歩いて腹ごなし。歩くのは大好きだし、この辺の住宅にも興味がある。

ビクターの住んでいる辺りは、シリコンバレーの高級住宅地である。巨大な家が立ち並ぶ、緑の深い住宅街だ。月明かりに照らされて、アスファルトの上で揺れている木陰の間をぴょんぴょん飛びながら、住宅街を歩いていく。右手には二階建ての大きな白い家が見える。玄関には、背の高い二本の柱が二階を貫いて立っている。窓からは灯りが洩れていて、部屋の中の様子がほんの少し窺える。洒落た置物や壁紙が見えた。いくつもの窓から灯りが洩れているのに、人の気配はしない。

「こんな大きな家に、たった二人しか住んでいないんだよ」

それは可哀想だねぇ。余計にスペースがある分、寂しくなっちゃうじゃないの。相手がどこかにいたとしても、探すのがたいへんだね。私達は、鬱蒼(うっそう)と茂る木々から垣間見る静かな家や、広すぎて一体何角形の家なのか見当もつかない家や、映画にでも出てくるような厳格な石造りの家などを楽しみながら歩いた。

「最近は、システム関係でお金を儲けた人達がここへ引っ越して来るようになったんだ。彼らは、昔からある家を取り壊して、その上に自分達の"夢の家"を建てるんだよ。」

なるほどねー。それで、時々、深みがないような家があったのかなー。
夢の家かー。私の夢の家はね、小さくてね、部屋が3つくらいしかないの。使い心地のいいキッチンがあってね、ベッドルームと日向ぼっこをする部屋があったらいいなー。それで、庭には畑があってね。乳牛がいるの。畑にはミミズがいてね、土は肥えてるの。野菜は畑からとって、朝になったら、ミルクを絞って、そのミルクでバターを作ったりクリームを取ったりするんだよ。牛の糞や残飯は畑の肥料になるんだ。あれ、ミミズの餌にしたほうがいいのかな。まぁ、いいや。そんな家が私の夢の家だよ。

「僕のと似てるねぇ。でも、僕は牛じゃなくて、ヤギを二頭だな。」

えーーー、やぎーーー?ヤギってあのヤギ乳のヤギでしょ?知ってる、知ってるよ、おいしいってことはさ。飲んだことあるもん。でもさ、残りの人生をずーっとあの乳の匂いと過ごすのかって思うと、鼻がおかしくなりそうな気がするよ。やっぱり牛のミルクのほうが好きだな。

私達は"夢の家"について、語り合いながら歩きつづけた。
ふと、金網が見えた。この住宅街に似つかわしくない金網。
金網の向こうには、建設中の家がポツンと建っていた。建設中の家はがらんどうで、外の枠組と家の中の壁が出来あがってるだけである。月が明るい夜なので、壁は防火壁が剥き出しになっているところまで見える。間取りはどうなっているんだろう

「ノリコ!こっち!」

見惚れていると、少し離れた横からビクターが私を呼んだ。どうやら、秘密の入り口を見つけたようである。え?いいの?家宅進入で捕まらない?恐る恐る、中へ入る私。金網からだって、家まではわりと距離がある。この広い庭に、たくさんの木を植えることも出来るんだな。背の低い太い幹の木々から見える、すっかり出来あがったこの家の姿を想像した。素敵だろうなぁ。子供のために木の枝にブランコまで取り付けちゃったりしてさ。

こっそりと、私達は家の中に入った。骨組だけの屋根から月明かりが煌煌と屋内を照らす。私が今立っている部屋は、なんだろう?リビングになるのかな。それともディナールームかな。ビクターが立っているところは、キッチンかな。バスルームかな。なんだか、骨組と所々の壁だけなので、広いのかそうじゃないのかわからなくなってきた。とにかく、豪華な家になりそうな気配だけはする。

「ノリコ、あれを見て!」

ビクターが指を差す方向に、小さな小人用のお家が建てられていた。こちらは、既に完成している。小さな、正方形の建物には、真っ赤なとんがり屋根がついている。小さいけれど、一丁前に立派な窓やドアまでついている。ビクターがそっと、ドアのノブをひねった。鍵はかかっていない。息をひそめて中に入る。なんと!こんなに小さいのに、二階建てである!!

じゅうたんで敷き詰められた床はふかふかだった。ほんの一部屋しかないスペースに、階段がにょっきりと背の低い天井を貫いている。階段を上って二階を覗くと、敷き詰められたじゅうたんとがらんどうのスペースが見えた。一階も二階も、子供が好きそうな空と雲の模様の壁紙が貼られている。正方形の部屋の全ての壁には窓がついていて、今はシャッターが閉まっている。外へ回ると、各窓枠には、セサミストリートの登場人物の名前が掘られていた。子供用のプレイハウスである。子供にとっての、"夢の家"だ!子供の家は、母屋から10mほど離れている。この家は、子供がこのスペースを窮屈だと感じるまで、思い出を詰めこみつづけるんだろうか。この家の子供は、自分のお家の中に、子供特有の秘密をたくさん隠して、わくわくしたり居心地が悪くなったりするのかな。

ビクターは、子供にお金をかけ過ぎだけれど、素敵なお家だ、と言った。
私はなんとなく、この家の人なりの子供への愛情、とでもいうのだろうか。そんなものを感じた。子供の夢を現実に叶えてるんだもの。この家の人は、もしも本当に手に入るのだったら、お菓子で出来たジャングルや本当にお話の出来る動物まで、子供のために叶えるんじゃないかな。

お金持ちの人もそうでない人も、子供を思う気持は同じだよ。
表現の仕方やしつけの仕方は違うかもしれないけれど。
どんなやり方だって、愛情があれば、子供の心は豊かになるよ。
まるで、太陽の光をたくさん浴びた果物みたいに。

(つづく)



14日 私という私
 
「あー、またやっちまったぁ〜...」

目が覚めたとき、昨夜のことを思い出し、私は唸った。飲み過ぎで頭が痛い。ああ、アメリカに着いて早々二日酔いとは。

なんでそうなったのかわからない。私はステレオの前でサンバを踊っていた。昨夜の私には、レゲエミュージックでさえもサンバに聞こえた。最高にいい気分。酔った頭で激しく踊ったサンバ。浅草サンバカーニバルにでも参加する勢いだった。何を隠そう、私は普通のダンスは踊れない

昨晩のこと。San Franciscoに到着した翌日である。私はビクターの友人主催のパーティに招かれた。新居お披露目パーティということらしい。友人の名前はアラジン。新進の写真家ということだった。

ニュージーランドへ旅立つ際、"もしものために"と私は何着かドレスやスカートを持って行っていた。しかし、自然の豊かなニュージーランド、しかも私が滞在している場所は大牧場の真中ということもあって、パーティへ出席するような機会はまったくと言っていいほどなかった。あったとしても、私のスタイルであるTシャツとGパンで十分に事足りるパーティばかりであった。アメリカへ旅立つ際、私はそのような無駄な荷物は一切持って行くのはやめようと思ったのだった。だから、ビクターにパーティへ行こうと誘われても、私にはそこへ着ていくためのドレスなど、一着もなかった

ビクターと私の共通の友人である女性もそのパーティに出席する予定だったので、彼女のドレスを借りることと相成った。私は背が低い。彼女のドレスはぶかぶかで、一目で借り物とわかる妙な姿でのパーティ出席だ。でも、かまわない。私は私だ

アラジンの新居はウォーターフロントの高級マンションであった。夕日の沈みかけた海を目の前に、ポーチには二つの灯火が、赤い炎をちらちらと揺らしている。部屋の至る所に彼の作品が飾られていた。作品はエキセントリックなものから、自然の美しさを訴えるものまで様々だ。私が一番目を惹いたのは、黒人妊婦のヌードであった。彼女の周囲には、月桂樹の輪が光輪のように飾られている。母になる女性の神聖さが写真から語られているように感じた。女性って、太古の昔からこんなふうにお腹を膨らませて、次世代を産んできたんだ。力強くて、清らかで、美しいその姿は、生きる者への神秘のメッセージに見えた。それをアラジンに伝えると、彼は満足気に頷き、家中私を引っ張りまわして一つ一つ、自分の作品を紹介してくれた。こういう一瞬の美しさを捉えることがことが出来るのって、やっぱり才能だよなぁ。私、人は必ずなんかしらの才能を持っているんじゃないかなって思うんだ。それがどんなに小さな才能だとしても。才能はお金と直結するものじゃなくて、それを知って生きる悦びにするものなんじゃないかな。人生の最大のテーマって、自分を知ることだと思うんだけれど、どれだけの人が自分を知ろうとしているのかな。自分を知らなければ、他人を知ることも出来ない。他人を知って、自分を知ることもある。人って動物と違って、子供が大人になるまでに一緒に暮らしていくだけの長い寿命があって、私達は前世代から次世代へ綿々と時を紡いでいる。私は次世代に何を伝えることが出来るのかな。私もいつか、こんなふうにきれいな妊婦さんになれるかな。

パーティはオリエンタルな出席者でいっぱいだった。ドイツ人、イギリス人、インド人...実に国際色豊かである。灯火の前で語り合う人達、音楽に合わせて踊る人たち。私はマルガリータを飲みながら、モデルの女性と世間話をしていた。つまみは私の大好きな野菜スティック。マヨネーズをたっぷりつけて、バリバリ食べる。マルガリータを飲み干して、次は赤ワインに手を伸ばした。私の隣にいたモデルは、今はビクターと話をしている。私の隣に、黒人男性が座った。私達はワイングラスを片手に、アメリカに根強く残る人種差別について話し合った。もともと私は熱い人間だ。つい、語りが熱くなる。語りが熱くなるとお酒も進んでしまう。話はクンタ・キンテから特殊な白人の排他的思想にまで及んだ。今思い出しても恥ずかしい。なぜ、なぜ私は黒人の人に対して、クンタ・キンテの話などをしたのか。なぜ、私はそんなにまで、よその国の問題に熱くなったのか。彼は私の手を固く握り締め、「もっと語り合いたいが、もう帰らなくてはならない。必ずメールを送ってくれ。もっと話がしたいから。」と言って、名刺を置いていった。今考えれば、血走った目をしたちっちゃな日本人を恐れて、逃げ去ったのだと思う。現に彼からのメールの返事は一通しか来なかった。それも、本文が何も書かれていない、タイトルだけのメール

彼が去った後、私は体の大きくて、ハンサムなドイツ人にダンスを申し込まれた。かなりの酒を飲んでいた私は、もはや誰にも止められない状態だった。前述した通り、私はダンスが踊れない。踊れるダンスはサンバとゴーゴーダンスだけだ。激しく踊ったサンバのせいで酔いが回った。私と彼はランバダを踊り始めた。背の高い彼と背の低い私。彼の腰は私の背中。私のお尻は彼の膝。酔っていながらも、私は「男性になめられちゃいけない」という心理が働いたのだろうか。それとも、ジャッキー・チェーンの酔拳を思い出したのだろうか。なぜだかわからない。とにかく、ランバダを踊っていた私は、くるりと回って、彼に飛び蹴りをしたのである。ハッと避ける彼。中国拳法さながら、私は高く回し蹴りをする。それに参加するビクター、他の人達。私は、ミニスカートを履いていることさえ忘れて、男達の顎を目掛けて回し蹴りをする。幸い、パンツは黒だった。見られたとしても、ブルマーとなんらかわらない。(そんなわけないだろーーー!!!)

男達が私にキックをしようとする、それを私は二の腕でキャッチする。ハッ、(パシッ)、ハッ、(がしっ)、ハーッ!(キック!)すごい!私、かっこいい!!本物のカンフーガールみたい!私は頭の中では、鮮やかに太刀打ちしているのであった。そして、私はゆっくりとこう言い放った。

アイ ・ アム ・ ティピカル・  ジャパニーズ ・ ガール! 」(わたしは典型的な日本人です。)

カーリーヘアのドイツ人が叫んだ。

「へぃ!みんな、見てみろよ!彼女、ダイナマイトだぜ!!へぃノリコ、この高さまでキックできるかな?」

彼は自分の顔の高さに手を持って行った。あったりきしゃりきのこんこんちきよーっ!キィーーーーーック!!!そして、再びこう言い放つ。

アイ ・ アム ・ ティピカル・  ジャパニーズ ・ ガール!

「へぃ!彼女最高だぜ!みんな見てみろよ!ノリコ、もう一度、ここの高さまでキックできるかな?」

あったりきしゃりきのこんこんちきよーーーっ!!!キィーーーーック!!!!!そして私は再び...。

これを何度繰り返したことだろうか。
あとはよく覚えていない。とにかくご機嫌で、帰りのビクターの車の中では、ひたすらべらべら喋っていたと思う。
気がついたら朝だった。

もう、二度と二日酔いはすまい、と心に固く誓った。
いつも固く誓っているのに、簡単に破られてしまう誓いであった。

私の旅は、始まったばかりであった...。

(つづく)



13日  夢を叶える
 
16歳の夏、学校の交換留学プログラムで、一ヶ月間アメリカに滞在した。それが、私の最初の海外であった。

学校でしか勉強をしたことがない英語。そんな頼りない私を、暖かく迎えてくれたホストファミリー。小洒落て見える家具は、私の家の檜箪笥とはまったく異なる。カーペットの色も日本では見掛けない色だったし、食器洗い機を当たり前のように使っていたりもした。スーパーに行けば、知らない味のポテトチップスが売っていたし、置いてある肉の大きさも想像を遥かに超えたものだった。すべてが夢のようだった。何もかもがカッコよく見えた。庭に生える青い芝生も、子供に優しくキスをするお母さんも、アメリカの国旗でさえも。

大人になるにつれて、当時の私は一体アメリカの何を見てきたのか、という疑問が頭をもたげてきた。小説の中に出てくるアメリカ、映画の中に映し出されるアメリカ、そこには私の見てこなかったアメリカがまだまだたくさんあった。もう一度、この目で何を見てきたかを確かめたい。当時の私は、あまりにも何も知らなかった。何もかもが刺激的過ぎた。あの頃の記憶は、まるで昨夜見た夢のようにおぼろげだ。いつか、この目で確かめてこよう、私の見たアメリカを。もう一度見て、今度こそそれが本物であることを確かめよう。

いつか、いつか必ず。

*****************************************************************

New Zealand Auckland国際空港。金曜日の夜だからだろうか、それほど人は多くない。

「忘れ物はないかい?本当にアメリカは危険なんだから、気をつけるんだよ。」

見送りに来てくれたホストファミリーのマイクは、心配そうに私の頭を撫でた。

「いってらっしゃい」

リンダは微笑みながら私を抱きしめた。

「本当に気をつけるんだよ。嫌なったらいつでも帰ってきていいんだよ。いつだって僕達は君を待ってるんだから。」

少し涙ぐみながら、マイクが私を抱きしめた。
おいおい、マイク、大袈裟だよ。たった3ヶ月なんだから。3ヶ月したらまた戻ってくるんだからさ。ずーっといなくなっちゃうわけじゃないんだから。マイクがそんなに涙もろいなんて知らなかったよ。

最後にもう一度、「気をつけて」と言って、マイクが私を抱きしめた後、二人は去って行った。

さー、私の新しい旅が始まるぞ。
既にアメリカには何度も渡っているけれど、今度の渡米は今までとはわけが違う。3ヶ月間、車でアメリカ中を旅する計画なのだ。この目で、リアルなアメリカを見るのだ。アメリカの中の、いろいろなアメリカを見るのだ。私は期待で胸がいっぱいだった。

ご存知のとおり、アメリカは50の州で成り立っている国である。それぞれの州には州法というものがあって、交通道路法から税率までが州法によって決められている。住んでいる人々も違うし、英語のアクセントすら違うこともある。つまり、州が変われば、国が違うようなものなのである。今回の旅には、州によってどれくらい人や文化が違うかを見る絶交のチャンスでもあった。アメリカの一部だけを見て、偏った印象など持ちたくない。出来るだけたくさんのアメリカを見よう。旅をし終わった後、私の中のアメリカはどんなふうに変わるんだろうか。

最初の目的地はSan Francisco。シリコンバレーに住む友人を訪ねることになっている。
今夜の飛行機はとても空いている。スチュワーデスが飛行機のドアを閉める音がする。シートベルトのサインが表示される。飛行機がそろそろと動き始める。暗闇に光る青い滑走路灯が、まるで宇宙の野菜畑みたいだ。ここはオークランド。空から見る夜景はきれいだろうな。

すごい!かっこいい!!かっこいい!!ヒューヒューッ!!」

真後ろのシートから一人ぼっちの歓声が聞こえてきた。
私は窓と椅子の隙間から後ろを覗きこんだ。みそっ歯の白人がキラキラした目でこちらを見て、再び滑走路を見る。ちなみに、まだ飛行機は飛び立っていない。

かっこいい!!

私は窓と椅子の隙間に顔を押し付けて、彼に言った。

「まだだよ。」

彼も顔を近づけた。う。酒臭い

「すぐだよ!すぐ!!かっこいい!!」

そして、男は私に向かって合唱をし、「サヨナラ」と言った。
そんな彼はイギリス人。「アメリカに帰るの?」と聞いたら、「あんなクソったれな国に住んでるわけないだろー。アメリカ経由でイギリスに帰るんだ。俺はイギリス人。アメリカ人なんて、ペッペッペッだ。」と言った。本当に唾が飛んできたので、ちょっと仰け反ったら、「ごめんよ。喋ってると唾が飛んじゃうんだ。」と言って、再び合唱をして「サヨナラ」と言った。

私は飛行機の中ではとにかく眠る。食事が来たのも気がつかずに、とにかく眠る。あの狭いシートで寝返りも打つ。とにかく眠って眠って、気がついたら、アメリカに着いているのだ。まるで、通勤電車に揺られていたら、会社に着いた、という感じだ。

気がつくと、飛行機はもうアメリカ大陸の上を通っていた。むおー、眠い。まだ眠い。でも、そろそろ起きようかな。おや?何やら背後が騒がしい。スチュワーデスと例のイギリス人がもめている。後ろを振り返る。上半身が裸の彼がいた。毛布で体を包んで、「恥ずかしい」と言った。一体どうしたの?

「どうしたも何も、俺のシャツがなくなっちゃったんだ。すごく酔っ払ってたから、どこで脱いだか覚えてない。たぶん、パイロットが盗んだんだ。」

それはないと思うけど、裸で外に出るのは恥ずかしいね。見つかるといいね。
スチュワーデスがくまなく機内を探したところ、彼のシャツはコクピット付近で見つかったらしい。

飛行機を降りる時、イギリス人の彼が私の肩を叩いた。

「アメリカは恐ろしい国なんだから気をつけるんだよ。僕がアメリカを旅した時は、強盗にあって歯が折れるほど殴られたんだ。本当に、人のいないところや危険なところに行ってはいけないよ。」

なんで、これから旅が始まるって時にそんな話するんだよーーー。でも、もう二度と会いもしない私のことなどを心配してくれてありがとう。それにしても、そんなにアメリカというのは恐ろしい国なんだろうか。誰もが銃を持ち歩き、道端でバンバン打ち合いをして、人がバタバタと死んでいくんだろうか。

飛行機はLos Angelsを経由してSan Franciscoに到着した。
もうすっかり夜になっていた。でも、空気は暖かい。あんなに寒かったニュージーランドから、一夜にして真夏の西海岸に到着してしまった。うーん、飛行機って便利。地球って不思議。

San Franciscoには、ビクターという友人が住んでいる。彼とは日本で一度会ったきりであるが、e-mailなどで細々と連絡を取り続けてきた。旅の初日に、どこに泊まるか、どこに行こうかあれこれと頭を悩ませるのはいやだったので、彼のところにお世話になる予定になっている。今のところ、どこを回るか、どれくらい滞在するか、細かいスケジュールはノーアイディアだ。

私はスーツケースをぎゅっと握り締めて、大きく息を吸った。
私の長年の夢が、今日から実現されていくんだ。いよいよ、始まるんだ

オレンジ色のライトの下、到着客と出迎え人とでごった返す通りに、青いステーションワゴンがハザードランプを点けて停まっていた。その横にビクターがニコニコ笑って立っているのが見える。

外に出る。車の音と人の声、暖かい空気。

私はアメリカに到着した。

(つづく)

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