Bryce Canyon(ブライスキャニオン)は、ユタ州にある。
Bryce Canyon、Zion、Grand Canyonはユタ州の南西に集中しているCanyon地帯である。世界的に有名なGrand
Canyon(グランドキャニオン)よりも北西に位置し、規模はGrand Canuyonに比べてだいぶ小ぶりである。しかし、その美しさは、Grand
Canyonに引けを取らず、全米では有名な観光地となっている。
今日は、久しぶりに軽く歩くつもりだった。
Bryce Canyonには遊歩道があり、1時間半ほどのコースから用意されているとの話を聞いていた。私は軽くCanyonを散策するつもりだった。
Bryce Canyonに向かうまでの景色は、私の想像を裏切っていた。そもそも、アメリカの自然自体が、今のところ私の期待を裏切りつづけていた。カリフォルニアの砂漠。水気のない乾いた景色。ネバダの砂漠。乾燥した荒々しい景色。ユタ州あたりになると、緑が増えてくる。けれども、緑の隙間に見える地層は、やはり乾いた土の色をしていた。もっと、壮大な景色だと思っていた。もっと心安らぐ大自然があるのかと思っていた。ニュージーランドとは明らかに異なる景色であった。ニュージーランドの自然は、もっと瑞々しくて安らぎがある。
Bryce Canyon付近になると、標高が高くなっていった。周囲の景色は山深くなり、赤い土の上に、ツンツンと杉の木が立っていた。赤い土は縞縞で、地層が剥き出しであった。
Bryce Canyonに入る前に、ビジターセンターに寄った。何か食べ物が置いてあったら、購入しようと思ったのだった。乾燥した気候なので、常に水は持っている。ビジターセンターに入ると、3人の職員が私を迎えてくれた。
"Hi. How can I help you?"
"Hi. How're you doing?"
"Hi. How are you?"
とりあえず、Good, thanks. と答えた。何か食べ物は置いてありますか?と尋ねるよりも先に、右側の中年男性が、「どこから来たの?」と聞いてきた。カリフォルニアからです、と答えると「どこ出身?」と聞いてきた。
「日本です。」
と答えると、アメリカに住んでいるの?と聞かれた。アメリカにいると必ずこう聞かれる。さすが多国籍の国。いやいや、アメリカには住んでないよ。ちょっと前までニュージーランドに滞在していたんだけれどね。
「100%日本人?」
真中の女性が聞いてきた。そーです。100%きっぱり日本人です。
「イタリア人の血は入ってない?」
右側の男性が尋ねる。おいおいおいおいおい。今までいろいろ言われてきた私だけれど、イタリア人はなかったなー。どうやったって、そうは見えないだろー。こんな平べったい顔つかまえてー。
「いやー。混じりっけなしの日本人です。」(たぶん)
「いいえ。違うわよ。先祖に必ずどこか別の国の血が混ざっているはずだわ。」
さすが血の入り混じった国。単一民族の島国では、思いつかない発想である。
「日本人は色が白くて、目が細いからなぁ。」(右側の男性)
「本当に混ざってない?Native Amricanの血とか...何かエスニックな血が。」(真中の女性)
おー、エスニック!つまり、私は南方系の顔だと。そういえば、よくフィリピン人と言われたりします。
「んんー。何か...他の...」
「いいかげんにしなさい。」(裏手)
右側の男性が突っ込んだ。一番左側のおとなしい男性は、アクセントと顔つきからして北欧系であろう。
「僕なんかアジアの血が混ざっているんだよ。ははははー。」
最後の"はははははー"がなければ、一瞬信じてしまうところだった。禿てるから髪の色はわからないが、碧眼であるこの男性。妙に顔の彫りが浅いので、もしや、と思わせる。
「で、ところで何が入り用なんでしょうか。」
と3人に聞かれた。ええ、あの、何か食べ物があるかな、と思ったんです。
すると、棚から無料の非常食をくれた。カロリーの高そうなチョコバーなどの詰め合わせだった。小さな地図もくれた。地図を見る限り、散策道はくるりと軽く回るだけの単純な道のようだった。
ありがとう、と手をあげてビジターセンターを去った。外は晴天。レストランで腹ごしらえを済ませてから、Canyonに向かった。
Bryce Canyonは赤土の世界だった。赤土の絶壁の頂上には、人の形に見えなくもない、風化した土の塊が至る所に乱立していた。あれが自然の力によって作られたのかと思うと、大いなる自然の力の神秘さを感じずにいられない。焼けるような日差しから、サーモンピンクの鮮やかな絶壁の影に入ると、空気はいきなりひんやりとする。土に触る。軽く触れただけで、ボロボロと壁が崩れた。温かいと思っていた赤土は冷たかった。
赤土の壁、赤土の地面、赤土の上に立つ杉の木たち。
杉の木は、焦げていて、その周囲の葉はきつい日差しに当たって紫色に反射していた。目がおかしくなりそうだ。それにしても、なぜ隣り合わせた木でも、一方は焼け焦げた姿をしていて、一方はそうでないんだろう。あまりの熱さのせいで、木々が焦げたのだろうか。ここは異質の世界だった。からりと乾いた空気は、パラパラと降ったにわか雨も、すぐに乾かしてしまう。私は、自然への畏怖を感じながら、歩きつづけた。足元は崩れやすく、水路のように窪んだ道は乾ききっていた。
ふと、数匹のアリが歩いているのに気がついた。実は、私はアリが大好きなのである。アリを発見したら、観察せずにはいられない。以前、マレーシアで葉切りアリを発見して、どれくらいの顎の威力があるのかと指でつついてみたら、ザクッと噛まれてしまったことがある。やつの顎は強力で、ぴんと立てた指に体が垂直になるほどだった。引っ張っても、頭がちぎれそうになっても離れないのだ。しかし、今、私の目の前で、隊を引き連れて歩いている黒いアリは、日本でよく見かけるクロオオアリにそっくりだった。まさかこんな熱い気候のところにクロオオアリもいまい。アリはたくさんの亜種があるので、その名前のすべてを覚えるのは容易でない。私は調査隊のアリがこの辺りにいるのなら、コロニーも近くにあるかもしれないと、付近を調べた。
彼女達のコロニーは大きく、朽ちた倒木の中に作られていた。
入り口付近は、敵の侵入を防ぐためのアリがウロウロしている。一生懸命、巣から砂を運ぶアリ、遠くから餌となる小さな昆虫を運ぶアリ。とりわけ、魅力的なのは女王アリであるが、彼女はコロニーの奥で大事にされているので、お目に掛かることは出来ない。私は他にもコロニーはあるだろうか、と思いながら、上へ上がって行った。時々、調査隊を発見しては、足を止めて観察した。
私は愚かだった。
足元に注目しすぎていて、天候が変わったことに気がつかなかったのだ。
頂上へ到達する頃には、黒い雨雲が立ち込めていたというのに。
ぽつり、ぽつり、と大粒の雨が降り始めた。大粒の雨は、瞬く間に豪雨となった。見る見る乾いた赤土が湿っていく。濡れた土の匂いが、私を不安にさせた。崩れやすい赤土が、泥土へと変わっていく。くちょくちょして歩きづらい泥土を登り、ふと周囲を見渡す。
まっ平らの空間がそこにあった。所々に立つ木は散漫で、丸い空間が私を取り囲むだけだった。辺りを見回す。けれども、どこが道なのかわからない。どれも道に見えるし、どこにも道はないように見えた。私は道に迷ってしまった。今来た道も、どこだったのかと思わせるほど、平らな景色は私を混乱させた。
雨は激しく降りつづける。崖の向こうに広がる赤い景色。今、それは果てしなく、私を無力だと思わせた。どこまで行けば、私は帰れるんだろう。ここで迷ったら、本当に帰れない。アメリカは巨大なのである。私は、あまりにもこのBryce
Canyonを甘く見ていたことに気がついた。たかが散歩道と思っていた。1時間半で帰れると思っていた。地図を信じていた。今、地図は役に立たなかった。地図が雨に濡れてボロボロになっていく。
そして、ついに、聞いてしまった。雷の音。
私は心が縮み上がった。
標高の高いまっ平らな空間に、私が立っていたら、何が起こるだろう。山頂での雷は、上から下へ行くとは限らない。下から上へもいくし、横から横へといくこともある。私は出きるだけ安全な場所を探そうと焦った。雷雲がここからそうは遠くない空でゴロゴロいっている。私は横穴を探した。しかし、無情にも辺りは不毛な平らな景色だけが広がるだけであった。自分の身を隠す場所すらないところに来てしまった。遠い空を見る。
黒い雨雲が続いていた。雨が私の体温を奪っていく。雷の音がどんどん近づいてきた。私は、逃げなければならなかった。しかし、どちらに行ったらいいのかもわからなかった。
とりあえず、藪の中へ逃げ込んだ。藪は雨をよけてくれない。それでも、雷に当たるよりはマシなのだ。木下は危ない。はた、と気がついた。私はまったく愚かである。今まで横目にしてきたあの焦げた木々たちは、落雷に当たった木だったのだ。見れば、至るところに焦げた木々がある。私が身を隠している藪でさえ焦げていた。つまり、このBryce
Canyonは四方八方に雷が走る場所なのだ。私はあまりの恐ろしさに体が震えた。恐怖のために体が震えたのは、産まれて初めての経験だった。これは何に対する恐怖なのだろう。死ぬかもしれない。私は、死に直面している恐怖に震えているのだろうか。いや、そうではない。小さな、人の力ではどうすることも出来ない、自然の激しさに畏れを感じているのだ。大きな自然の中で、私はあまりにも無力だった。
冷たい雨に、どんどん体温は奪われていった。私は、最悪の事態を考える。行動食はある。水もある。もしも、一晩をここで過ごした場合、何が起こるだろうか。あまりにもこの遊歩道を甘く見ていたため、自分の名前をどこにも残してこなかった。そもそも、名前を記すためのノートなど、入り口には置かれてなかった。ビジターセンターの人達も、私が帰ってこなかったことなど知る由もないだろう。何より、私はこのCanyonに生息する動物のこともよく知らなかった。こんなところで一晩を過ごすのはあまりにも危険だった。気温がどれだけ下がるかも見当もつかない。何か、最善の策はないだろうか。私に出来る、最善のこと。私は震える手をもう一方の手で押さえながら考えた。太陽のない空では、西も東もわからない。
パリパリパリパリッ!!!!
私の頭上で、空が破れるような大きな音がした。激しい雨。恐い!!
私は雷の光とその音との感覚が、次第に近づいてきていることに気がついていた。つまり、雷との距離はそう遠くないことを示している。私の不安は的中した。表現しきれないほどの大きな音と共に、私の右肩の向こうで青白い稲妻が落ちた。
逃げよう、今すぐ!
私は走った。今来たと思われる方向へ。雷とは反対の方向へ。足元がどんなに悪くても、とにかく走った。遠く、出きるだけ、雷から離れるんだ。早く早く早く早く。私は走った。背後の雷から出きるだけ遠ざかるのだ。早く早く早く。雷雲よりも早く私は走れるだろうか。私は後ろを振り返りたくなかった。立ち止まりたくもなかった。走って走って、転ぶのも厭わずにとにかく走った。両脇に焦げた木が見えたとしても、かまわず走った。私は泣きたくなった。
しばらく下って行くと、雨脚が弱まってきた。前方に青空が見えた。見覚えのあるアリのコロニーがあった。私は道に迷ってなかった。ちゃんと戻ることが出来た。雷は未だにゴロゴロいっていたけれど、目の前の青空が私の命を保証してくれているかのように見えた。私が歩いてきた道は、激しい川と化していた。泥水が流れて行くのを眺めながら、自然の激しさを目の当たりにした気持ちだった。
空気が暖かくなってきた。濡れた体もすぐ乾くだろう。
生きててよかった。死ななくてよかった。
私は雲の切れ目に見える青い空を仰いだ。心は感謝の気持ちでいっぱいだった。
何に対しての感謝なのかは、わからないけれど。
(つづく) |