6月(後編) (前編はこちら!)1日 14日 15日 16日 18日 22日 24日 26日 28日
28日 さよならカルメン
カルメンはまだ迷っていた。
私達は、タウポがあまりにも居心地がいいので、もう一泊延長していた。
今晩はタウポでの最後の夜になるし、明日の朝、私はここを去る予定になっている。彼女は私と別れて、一人旅を続けることになっている。けれど、彼女は迷っていた。いつ旅立つのか、どこから出発するのか。私は彼女に都合のよいところまで、車で送ってあげるつもりだ。それから、私はWhangareiまで戻ればいい。出来れば、電車やバスの通る大き目の町で降ろしてあげたいと思っていた。
今朝、私が目覚めたとき、既にカルメンはベッドにはいなかった。バックパッカースの人に聞くと、彼女は歩きに出てしまったらしい。タウポでの最後の日、つまり私達の最後の日ともなる1日であったが、彼女が一人歩きに出たということは、今日は別行動ということなのであろう。
すべてを了解し、私は私なりの1日の計画を立てることにした。
まずは、溜まりまくったメールの処理と、HPの更新だ。その後、再びワイカトリバーにでも行って、一風呂浴びるか、近くの山まで散歩に行こうかと思っていた。リビングで、コーヒーを飲みながら、メモを書いていると、昨日知り合ったばかりの、日本人の男の子達が話しかけてきた。リョウとタケ。23歳の彼らは、ここで働いている。「今日、サヤカさんと僕達で釣りに行くんです。一緒に行きませんか。」
釣りのスポットまでは、約30分間は歩かなくちゃいけないけれど、と言う。もとから歩く計画なので、調度いい。でも、釣りとなると、これを確認しておかなくちゃいけない。
「釣った魚は食べる?」
もちろんです。と彼らは力強く答えた。よし、それならば行こう。私は釣りは好きだが、食べもしないくせに釣りをするのは嫌いだ。釣ったら、感謝しながら全部食べるのが、魚に対する礼儀というものだろう。
ニュージーランドでの釣りの規定は厳しい。〜cm以下は成長過程にあるので持ち帰り禁止、〜cm以上は強者繁殖促進のため持ち帰り禁止などと、魚によってその指定は違うが、なかなか細かい。違反をして持ち帰ると、人々の軽蔑にあうという、罰金よりも更に辛い仕打ちが待っている。我々が行こうとしている川では、虹鱒が釣れるという。
「刺身で食ってもうまいですよ。」
いいねぇ。釣りたての魚を刺身で食べるっていうのは、私の夢の一つでもあるんだよ。海釣りには本当に憧れているので、ぜひいつか実現させるつもりだよ。でも、今日は川。川の魚だよー。虹鱒も美味しいよね。
彼らの仕事が終わり次第、出発するというので、私も急いで準備することにした。日暮れになっても、釣り場にいるので、かなりの冷え込みが予想される。出来るだけ寒さを凌げる格好をしなければならない。こんなとき、ジーパンしか持っていない自分を呪う。ジーパンは山や川には不向きだ。冷えるし、濡れると濡れた部分が広がって、体温を奪ってしまう。まぁ、私は普通の人よりも寒さに強いので、なんとかなるだろう。
車に乗りこむとき、リョウに一冊の文庫本を手渡された。釣り場で時間潰しに読めという。よくは覚えていないが、ブスは女の価値がないとか、才能のない男はダメだ、とか、好き勝手なことが書いてあったように記憶している。まぁ、よくぞこんな本にお金を払ったものだと感心した。
釣り場までは、小1時間ほどドライブ、その後30分ほど山の中を歩いて行く。
タウポ湖沿いをドライブしていると、フロントガラスの向こうにMt.トンガリロの勇姿が見える。Mt.トンガリロの姿は、小型の富士山みたいだ。てっぺんに雪帽子をかぶっていて、ひじょうに美しい山である。人気のない駐車場に車を停める。リョウとタケは、すばやく釣り人の格好に変身だ。サヤカも分厚いセーターを着込んでいる。川にかかる大きな橋を渡り、私達は森の中の小道を歩き始めた。森を抜けると牧場が広がり、更に奥に進むと再び森が始まる。遠くから激しい川の流れの音と、水の匂いがしてきた。そろそろポイントが近い。
川原に出ると、私は暑くてジャケットを脱いだ。冷たい空気が肌に心地いい。
男の子達はさっそく釣りを開始だ。サヤカは「前に来た時は、じっとしててとっても寒かったから、歩いてくる。」と言って、去っていった。私は、カルメンのために川の水をお土産にしようと、空のボトルを持ってきていた。明るいうちに、川沿いを冒険だ。途中でボトルに川の水を入れるのだ。川の水は澄んでいた。しかし、石が茶色に汚れている。しばらく川沿いを歩いていたが、ふと、ボトルに水を入れてみた。水の入ったボトルを日に照らしてみる。細かい砂やその他の浮遊物がボトルの中を動いていた。なんど汲んでみても同じ状態だ。.......まぁ、飲まないで見せるだけでもお土産になるかな。とりあえず持って帰ろう。
男の子達のところへ戻ると、私は岩に腰掛け、リョウに渡された本を読み始めた。日暮れにさしかかり、だんだん気温も下がってくる。うー、寒い。しばらくすると、サヤカも戻ってきた。魚はまだ釣れない。始まったばかりの薄明るい夜空に、一番星が木々の上に輝き始めた。気温は更にぐっと冷える。ああ、太陽って偉大だな。太陽がなくなるだけで、こんなに寒くなるなんて。富士山の頂上でも、太陽の偉大さを再認識したことがあったなー。夜は、夏でも悴むように寒い富士山の頂上。日の出と共に、寒くて強張っていた手が、溶けるように温かくなり始めたっけ。
寒いけれど、もじもじ動いていると体が温かくなる。私は暗闇の中、もじもじ動いては、はぁーっと自分の息の白さを楽しんだりしていた。すると、
「きたっ!きたきたきたーーーっ!!今日の晩飯ーーーー!!!」
タケがアタリを知らせる。リョウが自分のつり竿をほっぽり投げて、タケを手伝う。
釣り上げた虹鱒は規定ギリギリの小ささ。リョウが石でボカンと魚の頭を殴り、動かなくなったところにナイフで切りこみを入れる。すばやく体内から血を出してしまうのだ。サヤカが目を背ける。私は平気。牛の屠殺だって、へっちゃらだったんだから。えっへん。リョウが「魚を土で埋めておいて」と言って、自分のポジションに戻った。まだまだこれから釣れるかなぁー。私は重たい魚を持ち上げて、土に埋めた。土の中で魚がぴくぴくしている。うーん、虹鱒の刺身かー。私、醤油、持ってるよ。ああ、白いご飯に刺身と醤油...虹鱒の刺身は食べたことないけど、楽しみだーーー。
リョウとタケはしばらく粘っていたが、一向にアタリは来なかった。彼らの目の前で、嘲るように魚が跳ねる。
私達は宿へ戻ることにした。一匹でも魚が連れたんだもの、十分だよ。辺りはすっかり闇に包まれていた。空を見上げると、丸々と太った月が、煌煌と森を照らしていた。魚を片手にぶら下げて、私達は森の小道を走り始めた。木々の間から月の光が洩れている。森を抜けて、牧場沿いの道に出ると、一瞬視界が開けた。青白い光りに晒された牧場で、夜露に濡れた草が光っている。足元を見ると、月光に照らされた私達4人の影が、土の上に長く伸びていた。
なぜか、私は両手を広げて、体中に月明かりを浴びたくなった。立ち止まり、牧場を見つめる。太陽の光は暖かく、私にフィジカルなエネルギーを与えてくれる。青く、人を暖めることのない月光りは、私にメンタルなエネルギーを与えてくれる。静かで妖しく、不思議な魅力に満ちていて、まるで私に何か特別な魅力を分けてくれるかのようだ。お月様、私をアノヒトのためにきれいにしてください。アノヒトって誰?うりゃー、聞かんでくれー、まだ誰だかもわからないんだから。
宿に戻ると、飢えに堪えかねたカルメンが、既に夕飯を済ませて私達を待っていた。私は意気揚揚と水の入ったボトルを彼女に渡した。カルメンは大喜びで、一口飲んだ。私も一口飲んだ。ん?なんかちょっと苦い。近くに集落でもあったかな。
背後から、小さな声で、女性が話しかけてきた。
「ニュージーランドの水は微生物がいるので、飲むとキケンですよ。」
ありゃりゃりゃー。カルメンにはそのことは伝えず、「この水はあんまし美味しくないから、捨てちゃおう」と提案しておいた。これがバレたら、また「小さい部屋に行きなさい!」って怒られちゃうよ...。
虹鱒は雄だったので、白子を持っていた。白子はショウガと醤油で煮ることにする。
昨日買っておいた、南アフリカ産の赤ワインを開ける。リョウが虹鱒を刺身にしてくれた。サヤカが味噌汁を作ってくれた。白いご飯も大量に炊けた。うおー、無茶苦茶腹が減ってきた。いっただっきまーす!
虹鱒の刺身に、ショウガ醤油をたっぷり付けて、ぱくり。んーーーーー!んまいっ!!醤油なしで食べるとちょっと、川魚の生臭さが感じられるけど、ショウガ醤油で食べると、これがなんと、いきなりトロだよ、トロ!いや、サーモンの刺身に近いかな。こってりとした刺身の味に、白いご飯が進む。日本食びいきのカルメンも、刺身にご満悦のようだ。他の客達もこちらに興味津々だ。いーだろー、お前ら、こいつをムニエルっていうやつにしちゃうけど、刺身の方が断然うまいね。特上の味だよ。と、刺身に酔いしれるあまり、一時的な偏見に陥ってしまうのも無理はない。それほど、刺身はうまかった。お腹もいっぱい、片付けも終わって一息をついたところで、私はカルメンにこう告げた。
「私は世話のかかる人間だし、時にはそれでカルメンに嫌な思いをさせたかもしれない。カルメンも、時々私を悩ませたりもしたし、戸惑わせもした。でもね、私は今回のこの旅を、一生忘れないよ。私にとって、一番特別な旅だったよ。」
カルメンは黙ってうつむいて、テーブルの一点を見つめた。
そして、イエス、と彼女は小さくつぶやいた。私達は楽しい旅をしたね。いつか、自分達の旅を振り返ったとき、顔がほころぶような、そんな思い出をいっぱい作ったね。楽しかったよ、カルメン。どうもありがとう。
無口なカルメンを見つめながら、私は旅の終わりを感じた。
翌日、目が覚めると、やっぱりカルメンはベッドにいなかった。ま、まさか、サヨナラも言わずに旅だったんじゃあるまいなー...と不安な気持ちで着替えていると、濡れた頭のカルメンがシャワーから戻ってきた。
「のりこ、私、今夜もここに泊まることにするわ。そして、明後日のバスでウェリントンまで行くことにする。」
わかったよ、カルメン。私達はここでお別れだね。私は今夜はオークランドまで戻ることにするよ。いつかまた一緒に旅をしようね。メールを送るよ。勉強、頑張ってね。健康に気をつけてね。栄養、しっかり摂るんだよ。
1時間後、すっかり旅支度の出来あがった私の目の前で、同じドミトリーの部屋に泊まっていた男性が、やはり旅支度を終えて、ぼんやりしていた。今日、チェックアウトなんですか?へぇ、どこに行くんですか?え?オークランド?はい、私もです。え?ヒッチハイク?
「オークランドに行くんだったら、乗せてもらえませんか?」
「オークランドに行くんだったら、乗せてあげましょうか?」ハッピーアイスクリーム状態である。彼ともう一人の男性を乗せて、オークランドまで一緒に行くことになった。
駐車場にカルメン、サヤカ、リョウにタケが見送りに出てくれる。
狭い駐車場で何回も切り返し(同乗者及び見送りの方々をヒヤヒヤさせたようだ)、ようやく駐車場を出る。後ろからカルメンが何か叫んでいる。えー?なにー?車を停めて窓を開ける。"Behave yourself!" − お行儀よくするのよ!−
はいはい。ハンサムな男二人を相手に、お行儀よく、ね。わかりました。
私達の別れに涙は禁物。最後の最後はギャグでお別れだよ。ププッ!と軽くクラクションを鳴らし、オークランドに向けて車を走らせた。デンマーク人の男性2人を乗せて。金髪碧眼、北欧の彼らは、二人ともハンサムだった。年齢も私と同じ歳。うーん、こういうのが運命の出会いになったりするのかな。もしかして、あなた方のどちらかが、私の"アノヒト"だったりしない?
オークランドに到着後、彼らは憎たらしいくらい さわやかに握手をして車を降りていった。
26日 そして私は魚になった
タウポに向かう朝のことだった。
隣で寝ていたカルメンが飛び起きるなり、こう言い放った。「さー、のりこ。今度こそ逃さないわよ。前髪を切るの。それも、たった今!」
眠い目をこすりながら、え〜今〜?と思いながらも、一生懸命いい訳を考えていた。
彼女は自分で髪の毛を切る。前髪どころか、髪全体を自分で切ってしまうのだ。彼女のヘアスタイルは、ツンツン立ったショートヘアで、パンクとおしゃれのぎりぎりの一線上にある。彼女を信用していないわけじゃない。しかし、彼女のセンス次第で、どんな前髪にされてしまうかは見当もつかない。友情と美意識の狭間で私の心が揺れた。
ここのところ、髪の毛のことなど気にしていなかったので、前髪がうっとうしかったのは確かだ。そんな私に対して、カルメンは、うっとうしそうに自分の前髪を払い、こう言うのだった。「あー、のりこ。前髪うっとうしくない?切ってあげるわよ。」私は自分で自分の前髪が切れない。不器用なのだ。ついでに言うと、ポニーテールも自分では出来ない。やろうと努力をしてみたことはあるが、汗をかいた挙句、出来なかった。所詮、おしゃれには縁遠い私だ。ドレスに合わせて髪型を変えるなんてことは、生活振りからも無縁に近い。夏でも冬でもGパンにTシャツ。だから髪型も変えない。あ、三つ編はできるよ!ずっと前練習して、上手になったんだ。えへん。
毎回、なんとなくその場しのぎのいい訳を考えながらごまかしてきたのに、今朝のカルメンは容赦なかった。ぐずぐずする私のふとんをひっぺ返し、鋏を片手にバスルームへと私を追いたてる。まるで私は蛇に睨まれたチューチューマウスだ。
数分後、私は流しに散らばった自分の毛を眺めていた。長いのも短いのもごちゃごちゃになって散らばっている。「ギザギザに切ると自然な仕上がりになるのよ。」と彼女は言っていた。しかし、鏡に映る自分は、ただの散バラ頭になってしまった鼻くそみたいな女にしか見えなかった。しかし、前髪がすっきりしたので気分は非常にいい。視界はクリア、目に突き刺さるような感じもしなくなった。
「すっきりしたでしょ。」
うん。今日から前髪がサングラスにかかることはないんだね。ありがとう、カルメン。
散髪して気分も新たに、我々はタウポに向かった。タウポには、北島で一番大きな湖があり、周囲は川や山でおおわれている。今はオフシーズンなので、人はまばらで閑散としているとのこと。
2,3時間のドライブで、我々はタウポに到着した。今回のバックパッカースは、前回と違ってアダルトな客が多い。リビングルームで静かにくつろいでいると、無茶苦茶かわいい日本人の女の子が走り寄ってきて、カルメンに抱きついた。「カルメンーーー!!どうしてここにいるのーーー???」
彼女の名前は、サヤカ。カルメンとはWhangareiで仲良しだったのだけど、転々としているうちに連絡がつかなくなってしまったとか。カルメンも驚いている。「サヤカー!何度もメール出したのに、返事をくれないんだもの。」と二人で偶然の再会に驚いている。ニュージーランドは小さな国だ。こんなふうに偶然の再会ができるなんて、アメリカじゃまず出来まい。
サヤカは、昼は私達が宿泊するバックパッカースで働らき、夜は日本食レストランで働いているという。
「すっかりタウポが気に入っちゃって。もう、散策したり温泉に行ったりはしたの?」
え?温泉?ピクリと反応する私達。サヤカは、まだだったら、と言って"Nature spa"のことを教えてくれた。タウポの町を流れる、ワイカトリバーに、自然の温泉が涌き出ているという。今回のプロジェクト名が決定した。『大自然の中、Nature spaを堪能する』 である。Hot Water of the beach の屈辱の記憶も真新しい私達は、翌日、さっそく"Nature spa"に行ってみることにした。
何度も「カルメンが起きた時、まだ私が寝ていたら、ちゃんと起こしてね。」と頼んでおいたのに、私が目覚めたときには、もはや誰もベッドにはいなかった。ちくしょー、また寝坊だ。時計を持ち歩くのがキライな私は、今の時間がわからない。日の照り方からいって、恐らく9時半くらいかと思う。シャワーを浴びに行こうとすると、カルメンが帰ってきた。「のりこー、なんてお行儀の悪い子なの。もう10時よ。起きて起きて!早くシャワーを浴びてきて!今日はHuka Fallまで散策するんだから!」 うぃー、すぐに支度をしてくるよー。
手早く支度をすませ、45分後にはすべての支度が整っていた。時計は11時近い。お昼ご飯は帰ってきてから食べるということにして、我々はさっそく散策に出かけた。
Fuka Fall (フカ滝)までの道のりは、川に沿って森の中を遊歩道が整備されている。トレック時間は往復3時間と、軽いエクササイズとして調度良い。カルメンと私は悠々と流れるワイカトリバーを左手に歩き始めた。ワイカトリバーは深くて広い。川の水は、さんご礁でもいるんじゃないかと思うほど、どこまでも青く、どこまでも澄んでいる。冬でなければ、絶対に泳いでみたいところだ。泳げないけど。
静寂の中で、枝を踏みしめる音と、風に揺れる枯葉の音は、冬になって眠っている山を思わせる。私達の息は白いが、体は温かい。突然、カルメンが立ち止まった。
「もう、引き返したほうがいいと思うの。」
我々の出発が遅かったので、Huka Fallまでマジメに歩いて引き返してくると、温泉を散策する時間がなくなってしまう。既に時計は1時を回っており、日暮れ前に温泉計画を敢行するのは難しくなってしまう。私達は、Huka Fallをあきらめ、引き返すことにした。今回のメインプロジェクトは、そう、Nature Spaなんだから。
Nature Spaはこのワイカトリバー沿いにあるはずだった。地図を広げて確認する。よしよし、こちらの方向だぞ。お、湯気が見えてきた!湯気だーお湯だー!どこからか、熱いお湯が涌き出ていて、ワイカトリバーの支流となっている。でも、緑色の物体が底にへばりついていて、あんましきれいには見えない。しかも、どうみても水の量は膝より低めだ。私達は、川上のほうへ歩き、なんとかお風呂スポットを探そうとやっきになった。しばらくすると、腰をかけられそうな橋を発見した。その下を湯気を立てた川が流れている。川量はやはり膝丈くらいだが、橋に腰をかければ、座りながら足を濡らすことが出来る。私達はズボンを膝まで捲し上げ、靴下を脱いで、お湯の中に足だけを入れることにした。いくぜーーーっ。わくわく。
「うわぁっちっ!!!」
ひー、熱いよーーー。火傷しちゃうよーーー。
私達は川上の方へ歩いてきてしまったので、温泉の温度の高いポイントまで来てしまったようだった。しかし、ここまで来たのだ、プロジェクトを敢行しなくてどうする!?恐る恐る、再び足を浸す。しかし、10秒として我慢できない。そういえば、熱湯のお風呂に浸かりながら、自社の商品を宣伝する番組があったっけ。ああ、私の足、真っ赤になっちゃってる。私達は水着を着てこなかった。茂みで着替えようと思ったのだ。しかし、そんな都合のよい場所はこの辺りには見当たらない。それ以前に、こんな熱いお湯に浸かることは到底無理だ。私達は宿へ引き返すことにした。お腹も空いた。
川下へ下る途中、小さな橋の下で人の話し声が聞こえた。ふと見下ろすと、水着を着て、お湯に使っている人々がいる。おお!もしかして、ここが本物のNature Spa スポットだったんじゃない?真っ赤になるまでやせ我慢をして、足をお湯に浸していた私達って一体...?このスポットは、熱すぎるお湯と本流のワイカトリバーの水が混ざり合って、調度良い湯加減になっているとのことだった。お昼ご飯を食べたら、さっそく戻ってこよう!ということになった。
私達がワイカトリバーに戻って来る頃には、日が暮れ始めていた。今度は水着も着てきたし、タオルも持ってきたし、準備万端だ。しかし、日暮れ時なので、辺りには誰もいない。日が沈む直前で、空には早めの星が出始めている。足元が危険なので、少しだけでも明かるいうちに、パパパッと服を脱いで川まで降りる。ぬるぬるした岩に足を取られないように気をつけなくちゃ。暗がりだから、緑色の藻みたいなのが見えなくてちょうどいいや。
ようやく川まで辿り着く。人のお尻がすっぽりハマるくらいの深みにワイカトの水と支流のお湯が混ざり合っている。岩がゴツゴツしていて足が痛い。恐る恐る、そこに腰を下ろす。...........おおおおお!いい湯加減!感激だ。ついに、お風呂計画が実現した。Hot Water of the beach の屈辱も洗い流されて行く...。ふと見ると、カルメンも自分のスポットを見つけて実に気持ちよさそうだ。腰を下ろした目の前に、雄大なワイカトリバーが流れていく。その向こうの丘の上には、ロッジが立ち並び、黄色い灯りが温泉気分を盛り上げる。岩に背をもたせ、ポカンと口を開けて仰け反ると、逆さの空に朧月が現れた。私の耳に聞こえるのは、岩を打つ支流の音だけ。まるで、自分が森に生息している猿か小動物にでもなったような気分だ。
おや、上の方で誰かが私達を覗いているよ。背の高い、中年の白人女性だ。こっちに向かって口をパクパクしているのは、何か私達に話しかけているのだろう。川の音でよく聞こえない。にっこり笑って手を振ると、女性の姿が見えなくなった。私は再びワイカトの流れに目をやり、くつろぎ始める。用心深いカルメンは、警戒してそちらをじっと見つめている。突然、カルメンがささやいた。
"She's comming !" (彼女、来るわよ!)
おーけー、仲間が増えるわけね。いいんじゃない?と私は目を閉じながら請け応える。
"Noriko!! SHE IS NAKED !!!" (彼女、裸よ!!!)
なにーっ?さすがに私も振り返る。
うおぉーーーーっ!裸だよ!裸!!!すっぽんぽん!!40代そこそこという年齢のおばさんだが、タオルで体を隠すでもなく、注意深くこちらに向かって降りてくる。あああああ、絶対に転ばないでよ。裸でこんなゴツゴツの岩を転げ落ちたら、血だらけだよ。しかし、日本人がみんなと一緒に裸で温泉に入るというのが信じられない、などと言っている西洋人でも、こんなにあけっぴろげなのかね。ハイ。とおばさんが挨拶をする。おばさんはドイツから来た旅人だという。「温かいわね。川で体が洗えるから、今日は宿は取らずに車で寝るの。」と満足そうだ。暗がりの雄大な自然の中、彼女が裸であることは、至極当然のような気がしてきた。"そこに川があるから"と言って、服を脱いで川の水を浴びる。かつて人々はそういう生活をしていたんじゃないか?こんなところで、水着を着て川に浸かっている私達って、一体何者なんだろう?
橋の上で、老夫婦が何か叫んでいた。私達は親指を突き立てて合図をする。老夫婦は満足気に頷いて、影に見えなくなった。しばらくすると、この二人も、少し離れたところで、やはり素っ裸になってNature Spaを楽しみ始めた。誰も彼もみんな裸だ。私達を除いては。朧月夜、川に浸かりながら、静かに大人達が大自然に溶け合う。ああ、どうして私は水着なんか着ているんだろう。
そんなことを考えていると、おとなしそうな若い男の子がこちらを見ているのに気がついた。じっと見ている。...やっぱり水着を着ていてよかった。あ、彼が降りてくる。ぶかぶかの短パンを履いてるぞ。彼はこちらに歩いてきたが、私達からずいぶん離れたところへ浸かり始めた。女性ばかりがいるところは恥ずかしいのだろうか。でも...お兄さん、そこはちょっと寒すぎやしないかい?冬の寒空、彼は支流からだいぶ離れたワイカトリバーに浸かっていた。それ、温泉じゃなくて、ただの川の水だよ...。
そろそろのぼせてきたので、車まで引き返すことにした。濡れた水着の上にGパンを履く気分にはなれない。私はTシャツだけ着て、タオルを腰に巻いて車まで歩くことにした。カルメンは熱いと言って、水着のままで歩いている。
温泉から離れた瞬間に、私達は文明の世界に戻ってきてしまった。
だというのに、心は未だに自然にかえったままで、誰がどうみても水着姿でいるのはおかしいという状況でありながら、ちっともそんな気分がしない。幸い、誰にも見られなかったけれど。誰もいない駐車場で、人目も気にせず いさぎよく水着を脱いで着替えた。お月様はさぞかし当惑したことだろう。
そろそろ日が暮れ始めようかという最中、レゲエヘアの若者が屋根を洗っていた。
だから、屋根の下を通ろうとうする私達は、雨のように降り注ぐ水飛沫の下をくぐらなければならなかった。「こんなところでシャワーなんか浴びたくないわよ!」
カルメンが屋根の上の若者に叫ぶ。ようやく気がついた彼は、水の迸るホースをよけてくれた。
今、私達はバックパッカースの二人部屋に案内されているところだ。ドミトリー(相部屋)が満員なので、二人部屋をドミトリー価格+2ドルで提供してくれるという。プライベートシャワーもトイレも付いているし、お買い得だ。しかし、今晩もカルメンと二人でダブルベッドに眠らなくちゃいけない。
今回のプロジェクトは、『NZでも名高いバックパッカースを視察する』だ。前回泊まったバックパッカースのオーナーが強く勧めるので、そんなにいいんだったら、ぜひ泊まってみようじゃないの、とやってきたのだった。とりあえず、通された部屋は別に悪くもなく特別良くもない。リビングルームに行ってみる。それほど整理されていない。大きなキッチンも、それほどきれいじゃない。暖炉のある談話コーナーも、それほど整理されていない。ここのどこがそれほどのお勧めだと言うのか。
お茶を飲みながらくつろいだ後、私達は夕食の支度に取り掛かることにした。
にわかに宿泊客達が集まり始めた。瞬く間にキッチンが満員になる。実に国際色にあふれてた人々の集団だ。金髪碧眼の若者は、北欧の血が流れていると見た。そして、その横に座る人物はなにやら英語ではない言葉を話している。更に、国籍不明の黒人、明らかにイラン人と思われる若者...他にもたくさんの男の子達、日本人の女の子達。すでに彼らは仲良しで、どうやら長い間このバックパッカースに滞在していると思われる。日本人の女の子にそれとなく話し掛けてみると、どうやら彼らは南島からずっと旅をしつづけ、ここではフルーツピッキングの日雇い労働をしながら、ここに滞在。現在は果物の獲れない時期なので、休暇を楽しんでいるとのことだった。
なるほど、若者達は既に家族化していて、実に居心地がよさそうだ。そんな彼らに混ざりながら私も居心地がいい。これがNZでも名高いバックパッカースの由縁か。皆、ニューフェースを迎えて少々興奮気味だ。遠巻きに私達をチラチラ見ている。しかし、隙のない私達は彼らに話すきっかけを与えなかった。しかし、一人の黒人が私の心を捉えた。いや、正確に言うと、彼が片手にしている料理に目を奪われたのだった。黒々としててらてらと光った肉の塊。こ、これは一体...?
「豚肉をさー、しょうゆとコショウとちょっと砂糖を入れて煮るだけだよ。簡単だよ。」
どことなくオリエンタルさを感じるこの料理。あなたは一体どこの国の出身なの?
「バリ島さ。名前はボン。」
ボンとはそれっきり話さなかったけど、それをきっかけにいろんな人が話しかけてきた。
ノルウェー、フィンランド、南アフリカ、イギリス、イランその他いろいろ。皆、既に2ヶ月は滞在しているという。ガヤガヤとごったがえすキッチンに響く笑い声。世界中の人が国籍を超えて一つの家族になるってすばらしいことだな。夜更けまで止むことのないロックサウンド、外でタバコを吸う若者達。
なんだか、老人のような旅を続けてきた私達には、新鮮な夜だった。そして、翌日。
Mt.Manganuiの手前に、片道1時間半ほどの湿地帯がある。今日はそこへ散歩することにした。幸い、いいお天気。今日の昼間は暑くなりそうだ。湿地帯には、遊歩道が整備されていて、道行く人は犬を連れていたり、老夫婦が手をつなぎながら歩いている。暖かな日差しの下、キラキラ輝く湿地帯の間を縫うように整備された細い遊歩道。遊歩道の小脇には名も知れぬ植物が生息している。私達は、何を話すでもなく、のんびりと歩き、たまに愛想をふりまく犬をかわいがり、通りすぎる老人に軽く挨拶などをし...時折立ち止まり、Mt.Manganuiの勇姿を眺める。雲一つない乾いた空。小鳥のさえずりと、遠くからヘリコプターの音が聞こえる。実にのどかだ。しばらくすると、鼻歌を歌っていたカルメンが、黙り始めた。どうやら疲れてきたらしい。私達は湿地帯から抜け、バックパッカースへ戻ることにした。私達は朝ご飯を食べていなかったし、時計は既に1時を回っていた。ああ、お腹が空いた。
ここからバックパッカースまでは、おそらく40分くらいだろうと思う。地図で場所を確認した後、私達は公道沿いを歩き始めた。立ち並ぶ美しい家。アボガドの大木が庭にそびえている家もあるし、赤いレンガ作りの家もある。昼時のせいか、いい匂いもする。
左手に山が見える。そして、正面には、輝く海が広がる...。
ちょっと待て。正面に海が見えちゃいけないんじゃないの?そろそろ、近所のスーパーマーケットが見えなくちゃおかしいはずだ。道路の名前を確認。地図を見る。「あ...カルメン、ごめん。反対方向に歩いてきちゃった...。」
とっさにカルメンの表情が変わった。キッと私を睨みつける。
"What!? Go to the small room!!! Right now!"
− なんですって!?小さい部屋(ここではお仕置部屋の意)に行きなさい!今すぐに! −あーん。怒られちゃったよーーー。ごめんなさーーーい。
「今夜はペナルティとして、夕飯の支度全部やってもらうんだから!もう!」
カルメンはぶりぶり怒っている。それもそのはず、もうすぐ着くよと調子のいいことを言われて歩いてきたものの、あと1時間は余計に歩かなくちゃいけないんだもの。あーん、カルメン。笑ってよー。ユーアーラブリー。アイラブユー。
「ノー!!」
バカなことを言いつづける私に、怒ったふりをしていたカルメンもついに吹き出した。
その後、私はカルメンのご機嫌を取るふりをし、カルメンは怒ったふりをしながら、バックパッカースまでゲラゲラ笑いつづけた。足が棒になるまで歩かされたカルメンは、ことあるたびに「小さい部屋へ行きなさい!」、「お行儀良くしなさい!」と私を叱り、私は彼女のために、得体の知れないイタリアン料理とお米を鶏ガラと一緒に鍋で炊いた、なんとなく中華っぽい味のご飯を振舞った。皿を見て、彼女が一瞬ひるんだのは言うまでもない。
そして私は、彼女が寝入るまで機嫌を取りつづけたのであった。
P.S.
このバックパッカースが、本当にNZで名高いかどうかは定かではない。