November in U.S.A.

11月

1日   2日   3日   5日   6日   6日'   6日''   7日
 

7日 旅はこれからだった

ホテルのチェックアウトを済ませた後、チョーさんは、「海が見たい」とのたまった。ホテルは海沿いだ。車を動かせば、すぐにでも海を見ることは出来るだろう。ここは一発、 海沿いをドライブと洒落こもうではないか。

燦燦と降り注ぐサン・ディエゴの陽射しの中、私は気ままにハンドルを握った。
さーて、どっちへ行こうかな。こっちかな。こっちへ行けば海を見渡せるかな。ハンドルをくるくる回す。しかし、走れば走るほど、 住宅街の奥深くへと入りこんでしまう。

整然と立ち並ぶ、平屋の家屋は総じて広い。玄関先には、濃いピンク色の小花 がたくさん咲いている。ふいに目の前に出てきた家屋の一つは、背の高い2階建てだった。高い窓からはアメリカの国旗が下げてあり、自由と誇りの国民であることを誇示している。家々の庭に眩しい、濃い緑の芝生。道路に水を撒く老人。降り注ぐ太陽の光。小さな虹。見上げれば白い雲。午前の匂い。一日が、ぐーっと伸びをして、ようやく軌道に乗り始める時間。

住宅街を何周かした後、私達はついに海沿いの高速道路に出ることができた。長くまっすぐに伸びた高速道路の両脇は、濃紺の海が広がっている。脇を見れば、近くに停泊する大きな貨物船が見える。映画ではこのような高速道路の途中が急に途切れて、車が宙に飛んだりするのである。まぁ マイアミのセブンマイルブリッジのようなたいそうななものではないけれど。しかし、私達の走る高速道路は、どこまでも続いているかのように見えた。

「おお、海やなぁ!」

チョーさんの言葉はいつも短い。それほどおしゃべりな人ではないのだ。言葉は少なくとも、チョーさんはこの景色に満足しているようだった。私は、チョーさんが満足するようにと、その道路を数度往復した。

すると、助手席にいるチョーさんがなにやら地球の回り方なるガイドブックをぺらぺらとめくり始めた。なんだ、そろそろ海にも飽きたか? (← 同じ景色を行ったり来たりしているだけなんだから当たり前である)

「メキシコって近いの?」

近い。とても近い。サン・ディエゴはまさにアメリカとメキシコとの国境沿いにあると言ってもいいくらいだ。実は、ちょうど私の中で、メキシコで観光した後に帰路に着けばいいという、安易なガイドを思いめぐらせていたところだったのだ。チョーさん、行きましょう。こんなに近くまで来てるんだし、これは 行ってみるしかないっスよ!

「行ってみるかぁ!」

チョーさんは決心したかのように、勢いよくガイドブックを閉じた。よしきたガッテンしょうちのすけ!
私は方向転換した。

「でもなー...行けるんかなー。捕まったりせぇへんかな。」

ダイジョーブダイジョーブ!悪いことしてないし、薬を持ってるわけじゃないし、犯罪を犯して逃げるわけでもないし。それに、アメリカからメキシコへ出国するのは、 案外あっけないそうですよ。

「だからさー、帰って来れるんかな。」

出れたなら帰ってこれるでしょー。大丈夫!私が大丈夫と言っているんだから、絶対大丈夫!
私は根拠のない太鼓判を押した。それにしても、やけにチョーさんは弱気である。

「ほんま、行くんか?行くんか?ほんまに?」

行く。行きますよー。だって、もうそっちへ向かってるもん。まだ引き返せるけど。

「帰えれんかったらどうするんや。」

帰れる帰れる。大丈夫。とりあえず行ってみましょう!

そして、目の前に飛び込む大きな標識。

『TO MEXICO』

メキシコへ通じる道へのジャンクション。いよいよかー。

「じゃ、行っちゃいますよ、チョーさん。」

私はウィンカーを出し、ハンドルを握りなおした。アクセルを踏む。さー、行っちゃうよー。

「おいおいおいおい!マジかーーー!!!」

まるで、そうすれば車を停めることが出来るとでも思っているかのように、チョーさんはダッシュボードに両手をついて、体を突っ張った。標識は、あっという間に私達の背後に去った。

分岐点の標識は、あまりにもさりげなかった。まるで、アメリカ国内の土地を案内する標識のように。旅の最中、私はこういった標識を、一体どれほど見てきたことだろう。To Wisconsin や To Texas だの、大雑把な地点を示すあの標識に、私の道のりは間違っていないんだと、幾度励まされたことか。そう、今回も、私の道のりは間違っていなかった。私のハニー三世は、一路、メキシコへ向かっているのだ。もう 後には引けない

「nonくん、男やなーーー!!」

ちょっとチョーさん、誉め方間違ってまへんかー。

分岐点を通過した時点で、やけに車が少なくなった。そして、チョーさんのこの動揺振り。私はちょっと不安になった。おい、なんだよ。みんな一緒に行こうぜ。しかし、無情にもトラック一台見当たらない。はるか遠くの目の前に、乗用車が一台見えるだけである。

私の横では、チョーさんの動揺のつぶやきが未だに聞こえていた。

すると、目の前にまるで高速道路の料金所のようなイミグレーション(出国審査)が現れた。あれ、あそこに数人立ってるのが出国検察官か?どれ、パスポートがいるかのう。まごまごしているものの、徐行でイミグレーションを通過する。バックミラーではにこやかに白人の女性検察官が我々を見送っているではないか。あれ?いいのかな?あれ?あれ?目の前は、なんだか白い制服を着たヒスパニックのお兄さんばかりが立ってるぞー。おーい、出国審査はいつするのー?ヒスパニック系の検察官さん達の顔は厳しく、りりしい。メキシカンレストランなどで見かけるヒスパニックの人達とは、顔つきが違う。こ、この人達はもしかして、 アメリカ人さんではない...

「おー、ついに来てしまったなぁ!」

え?やっぱり、もうメキシコなの?
検察官が窓を叩く。

「トランクを開けて。」

入国審査!?うっそーーー!!!もうアメリカじゃないのー?出国しちゃったのーーー?えーーー?うそーーー!!??

今更私が動揺する。よく見れば、りりしい顔した検察官は、どう見ても メキシコ人たる誇りが滲み出ている ではないか。彼の肩越しに広がるメキシコという国。古びたレンガのビルに荒れたアスファルト、そして錆びかけた白い金網。

...一体、呼び知識のまったくない国で、道も分からないってのに、どこをどう観光すばいいというのか。自分の無謀さに呆れてしまう。とにかく、ともかく、とりあえず、どんなことがあっても 帰り道だけは確保しなくてちゃ。帰り道を知っていれば、きっとなんとかなるはずだーーー!!!

「あ、あの...アメリカへ行く道を教えて下さい。」

もう行ってもいいよ、というそぶりを見せていた検察官が、きょとんとした表情で私を見つめた。そりゃそうさ。メキシコへ入ったばかりの人間が、車も降りずに再びアメリカへ戻るなんて、 奇妙以外の何ものでもない行動だろうからね。はっ...奇妙な行動は、犯罪者と間違われてしまうんじゃないだろうか。薬の売人と誤解される前に、ちゃんと身の潔白を証明しなくてはーーー!!!

「私達...道を間違えてしまったみたい...。」

浅黒い肌をした検察官。りりしく誇り高い瞳の検察官。その検察官が、「え?」という間の抜けた顔をした後、「 あっちゃー」という表情と共に、手のひらで額をおさえるジェスチャーをした。

やっぱり私、ものすごーくヤバいことしちゃったのかなー...。

「アメリカへ行くのにはね、ここをまっすぐ走って最初の角を右に回ると、標識が見えるから、あとは標識のまま進めばいいよ。 アメリカに入れるかどうかはわからないけどね。

どっきーーーん

私の心拍数が上がる。きっと、チョーさんの心拍数も上がってる。どどど、どうしよう。チョーさん、ちゃんとパスポート持ってますね?

「持っとるよー。大丈夫かー。俺達ー。」

気軽にメキシコを観光しようとなんて思っていたけれど、今はただひたすら アメリカへ帰れるかどうかを確認したい 。確認するには、もう一度アメリカへ戻るのが一番だ。来たばかりだけど、もう帰りたくなってしまうメキシコ。ああ、メキシコよ、メキシコよ。

私は検察官に言われたとおり、最初の角を右に曲がった。赤い六角形の標識が見える。通常なら、『STOP』などと書かれているはずの標識だが、今は私には読めないスペルが書かれている。 標識が英語じゃない。目に見える文字、すべてが英語じゃない。アスファルトは手入れをされている様子はなく、目に映る建物は皆裏寂れていている。アメリカ合衆国に漂う、あの合理的で整然とした街並みや豊かさを象徴するような景色、優越感にも似たゆとりのある眼差しはここにはなかった。ここはどこ?私の知らない国。私の知らない文化。私の知らない言葉。国境という見えない境界線を越えただけなのに、 周囲の景色が一変してしまった。同じ空が続いているはずなのに。空気を切り分けることなど、出来ないはずなのに。

USAという文字の書いてある標識が見えた。私はすがるような気持ちでハンドルを切った。

すぐにも、イミグレーションに突き当たった。しかし、今度は雰囲気がまったく違う。イミグレーションは渋滞していた。にこやかに見送ったアメリカ人の検察官達が、今度は厳しい顔をして車の中を覗きこんでいる。メキシコへ入国するときは、あんなになんにもなかったのに(だからこそ、出国した自覚も感じられなかった)、アメリカへ入国するためのイミグレーションには、 電光掲示板で細かに入国者への指示が表示される。

パスポートを用意しなくちゃ。チョーさん、準備はいいですか?

ふと、チョーさんの手元を見る。チョーさんの手には、明らかに違う国のパスポートが握られていた。ああそうか。チョーさんは韓国の人だったんだ。

「俺、大丈夫かな。」

え?何が?

「俺、韓国人やろ。韓国人はアメリカをいったん出国してもよかったんやろか。メキシコとか入ったらいかんとちゃうか。」

わ、忘れてた。そうか、お国が違えば国同士の関係も違ってくるよね。大丈夫かな。大丈夫だと思うけど、大丈夫かな。なんだかチョーさんの国籍とか、私の国籍とか、チョーさんと私の関係にはぜんぜん意識する必要のないことなのに、こんなことで国籍のしがらみを思い出してしまうものなのか、と少し寂しくなった。寂しいというよりも、お国同士の取り決めが、他人事のように空々しく感じる。でも、私達はその取り決めに従うしかないのだ。

ついに、私達の審査の順番が来た。女性検察官が車を覗き込む。

「パスポートを拝見します。」

女性が手を伸ばした。彼女が私のパスポートを見る。「サンキュー」と言って、にこやかに私のパスポートを返してくれた。次に、チョーさんのパスポートを見る。彼女の手が止まった。じっと見る。チョーさんの顔をキッと睨む。私の心臓がドキドキし始めた。心なしか、空気が重苦しく感じる。

「日本から来たんですか?」

チョーさんが、イエスと答える。
「そう」と言って、検察官はあっさりとチョーさんのパスポートを返した後、行け、というジェスチャーと共に、彼女は背後の車へと去って行った。なんと、我々の審査は無事終了した。

ホォォォォォォーーーーーーーオ。

私達は胸をなでおろした。よかった。私達、アメリカに帰れましたよーーー!!! よかったーよかったー!
イミグレーションを通過する。とたんに滑らかな走り心地のアスファルトに一変する。遠くまで伸びる高速道路。定期的に立ち並ぶ街灯。文化に安堵するのは、恐らくこれが初めての経験だ。自然派志向の私も、アメリカさん的文化に毒されてしまったというのか。ああ、とにかく、無事に帰れた。よかった。ほんとによかった。

「なんとかなるもんやなぁ!」

チョーさんが言う。
だから大丈夫って言ったじゃん!

「もう一回、行ってみますか?」

チョーさんは口をOの字に開けて、激しく手を振った。

あははは。冗談ですよ。私ももうこりごり。

「俺、これだけで俺の旅は終わったって気になったよ。なんや、達成感を感じる な。」

メキシコ滞在、約15分(推定)。
こうして私達のメキシコ観光は終わったのであった。

(つづく)



6日" 体の距離と心の距離
 
レストランの外は、思ったよりも肌寒かった。腹ごなしがてら、散歩をして帰ることにする。ああ、お腹いっぱい。私はチョーさんの後ろを歩きながら、 体中のエネルギーが消化活動に注がれているのを感じていた。

実に贅沢な食事だった。

前菜、サラダ、スープ、パスタ、メインの肉と魚、コーヒー。アラカルトで一通りの料理を注文した。パスタは、しっかりと腰のある茹で上がりだったし、程よいガーリックとトマトのソースが美味だった。メインの白身の魚はローズマリーとオリーブオイルがアクセントとなって美味だった。ステーキも、香ばしく焼きあがり、実に美味だった。最後は、 エスプレッソが入らないくらい満腹になった。

今夜は、十分に豪華な料理を味あわせてもらった。ほんとにチョーさん、どうもありがとう。と背中から拝みたくなる気分だ。

「うまかったなぁ!」

チョーさんが改めて感嘆の声をあげた。うん、確かに美味しかった。でも、食べ過ぎて今は苦しい。あんなに美味しいものを食べたのに、苦しくて顔が苦痛に歪んでしまう。ああ、今、私の胴体はまん丸に膨れ上がっている。苦しい苦しい苦しい。今すぐに横になりたい気分だ。

しかし、横になるところは、あのダブルベッドだけなのだ。私が横になるところで、チョーさんも横になることになっているんだ。部屋に戻ったら、すぐにもパジャマに着替えたいが、その際 ブラジャーを外すか外さないかが大きなポイントだ。この満腹の苦しみの中、ブラジャーをつけたまま寝るのはあまりにも酷だ。しかし、うっかりノーブラがバレてしまえば、それこそあれよあれよというままに、ベッドの上で踊らされることになってしまうかもしれない。

悶々と考えごとをしているうちに、部屋に到着してしまった。

「あー、食った食った!」

と言って、チョーさんはそのままバタンとベッドに横になった。私は、手早くバスルームでパジャマに着替えた。とりあえず、ブラジャーは着けたままにしておいた。チョーさんが寝静まるのを待ち、その後こっそりブラジャーを外すのが得策であろう。うむ、これが 賢い女の選択だ。うっかり胸を触られてしまうことがあっても、ノーブラではやる気満々と勘違いされてしまう。しかし、ブラジャーをつけていればその恐れもない。うむ、ますます賢い選択であることを実感してしまうぞ。

部屋に戻ると、チョーさんがTシャツにトランクス姿で横になっていた。私は、うっかりポロチンを目にしてしまわないよう、股間付近に視線を這わせない細心の心遣いをした。

私が、早く横になりたいと思いつつバタバタを顔などを洗っているうちに、チョーさんはすっかり眠ってしまった。それも、 ベッドの端っこのほうに寄って

何か...何か冷たい風が私の心の中を通り過ぎて行った。何も期待されていないことは、この際 女として問題になるんじゃないだろうか、などと馬鹿げた考えが頭に浮かぶ。いやいや待てよ。これはチョーさんの得意な戦法なのかもしれない。私がベッドに横になった瞬間、

「うーん、むにゃむにゃ...」

などと言いながら、私のほうに寝返りを打ち、そのままなし崩しにコトを始めるつもりなのかもしれない。いやまて。チョーさんはお金持ちなんだ。そんな姑息な手段を取るはずがない。モテモテで、もはや煩悩もないと言われるほどのチョーさんだ。自分から攻めに入ることなんてないのかもしれない。案外、自分から先に寝たふりをしながら、 女の方が強引に誘うのを待っているのかもしれないじゃないか。では、チョーさんのイメージの中で、私は彼に馬乗りしていることになるのか。おいおい自分よ、一体何を考えているんだい?このまま素直にベッドに入って、おやすみなさいって言えばいいことじゃないか。バカだな、自分。

私はそろりとベッドに入った。その際、「失礼しまーす」などとうっかり口走らないように気をつけた。起こしてはいけない。知らないうちに朝が来ているというパターンが一番美しいのだ。

しかし、チョーさんはむくりと起きあがった。え?え?何?始めるの?始めるの??つつつ、ついに!?

シャワー浴びてくるわ。」

ふーぅ。びっくりした。いやまて。安心するのはまだ早い。寝る前のシャワーが一体どんな意味を成しているのか、君は考えたことがあるか。普段から取っている行動でも、 何か特別な意味を秘めているようには思えないか。

ベッドに滑りこんだ後、私は出来るだけベッドの端に寄った。まさに、ベッドの縁上で寝ている状態だ。

チョーさんの浴びるシャワーの音を聞きながら、私は目を閉じた。
とにかく、チョーさんが寝静まるまでは起きていなくちゃいけない。チョーさんが眠ってしまってから、ブラジャーを外す んだから。

などと考えながら、当然のごとく、真ッ逆さまに深い眠りに落ちていった。

**********************************

朝、目が覚めると、やはり私はベッドの縁に眠っていた。チョーさんの姿はなかった。大方、朝の散歩に出かけたに違いない。カーテン越しに見える朝日は、いいお天気であることを約束していた。さー、朝だ。清らかな私の朝がやってきた。しかし、なぜか 空虚な笑いがこみ上げてくる。

いや、いいのだ。これだいいのだ。私は人間としての尊厳を守ったのだ...。(そんな立派なことではない)

しかし、ここで私は強く言おう。うら若き青年淑女よ、よく聞くがいい。

時に、男女の距離は途方もなく遠くなるものである。

このことをしっかりと胸に留め、強く生き抜いてもらいたい。

さて、チョーさんもいないことだし、ネットにでも接続するか。私はノートPCの電源を入れた。
一通りのHPの巡回をすませ、メールをチェックしているところへ、チョーさんが戻ってきた。

「お、何、これ。メール送れるの?俺の会社にもメール送れる?」

私のメアドでよかったら、代理で送ってもいいですよ。
私はチョーさんのために、新規のメールエディタを開いてあげた。

「今回のことな、会社の連中に女の子と二人で旅行に出かけるって話をしておったんよ。さぞや期待しているだろうなーと思ってな。俺が文章を言うから、ちょっと打ったって。」 (ほんとにこんな関西弁だっただろうか...)

よしきたガッテン。じゃんじゃん入力しますから、どんどん言ってください!
私は単純である。今、チョーさんのために役に立とうとしている自分が嬉しい

「えーっと、まずは、こんにちわ、やな。そんで、今、nonさんという子と一緒にホテルでメールを書いてますって書いて。そんで、目の大きいかわいい子でしたって書いて。」

...嘘はいけまへんで、嘘は。

「みんなを羨ましがらせたいんや。えーっと、あと、昨夜は何もありませんでした って書いて。」

...ええ、書きましょうとも。出来れば太字で書きたい気分です。

「まー、にわかに信じがたいことやろうな。あははっ!」

あははっ!じゃない。

「あの、私からのメッセージも加えていいですか?」

「いいよいいよ、加えたって。」

私は、そのメールに一行付け足した。

チョーさんはけっこうワイルドだったけど、とっても優しかったです♪

期待には応えておかなくちゃ、ね。

吹き出すチョーさんを見て、ようやくチョーさんとの心の距離が縮まったような気がした。ベッドの上で離れて寝ていた私達。何事もなく迎えた朝に、やっと打ち解けることが出来た。きっとこれが正しい心の距離の縮め方。やっとお友達になれたのだ。

今なら、チョーさんに伝えたいことを伝えられるような気がする。もしかしたら、チョーさんは何かを期待していたのかもしれないんだもん。そう、今。今ならそのことについて触れられる。

「チョーさん...昨晩は何もしなくてすみませんでした。あの...期待していることとか...

チョーさんはポロリとタバコを落とした。

「お、お前...ぐっすり寝とったやろーーーーーーーっ!?」

かくして、私の貞操は守られたのである。

(つづく)



6日' なんでこーぉなるの!
 
お部屋が清掃されている間、我々は近所を散策することにした。

小雨の降った後の、生暖かい空気に潮の匂いがする。空は未だ曇り空。数匹のカモメが真上を旋回している。海辺に見えるパームツリーがそよそよと風に揺れていた。

あー、ここはサンディエゴ。メキシコに隣接する、常夏の楽園。
アスファルトから立ち昇る湿気の中、街を歩くことにした。ホテルは繁華街から多少離れていたため、周囲はそれほどにぎやかではない。歩いていると、手頃なカフェが数軒並んでいた。私達はそのうちの一つへ入ることにした。

ポテト料理の軽食とビールを注文する。チョーさんはタバコをふかしながら、外を歩く人を見つめていた。私は、自分の貞操を心配するあまり、 瞬く間にビールを飲み干してしまった。い、いかん。ほんとは酔わないようにゆっくり飲まなくちゃいけなかったのに。

しかし、それほど会話も盛りあがらないこの状態で、何も飲まずにつまみを食うのは、拷問のように思えるのだ。

私はビールを追加注文した。

会話は、なんとなくチョーさんをとりまく女性の話題へと流れていった。女の子の心理などについて語り合っている時だった。

「そうか!ようやくわかったで。あれはみんな、なんか買うてもらおうとして、あれが欲しいこれが欲しい、言うんやな。それだったら、『これ買って!』って言うたらいいのになぁ?」

それでも、かなり直接的にねだられてると思うのだが...。なんで気がつかないの?

2時間ほどそこで時間を潰すと、私達は部屋へ戻ることにした。そろそろ清掃も終わっていることだろう。それにしても、どうもまだチョーさんは私に心を開いてくれてないような気がするなぁ。会話はなかなか盛りあがらない。

部屋のドアはチョーさんが開けた。本能からであろうか、私はチョーさんの後から入ったにも関わらず、タカタカとチョーさんを追い越してベッドをチェックしに身を逸らせた。

あ、やっぱりダブルベッドだ!それも、既に乱れている 。...え?乱れてる?ななな、なんでーーー!?

確かにベッドはダブルベッドだった。しかしそのシーツにはシワが入り、毛布はまくれており、枕はへこんで曲がっていた。

うそっ!!!私、まだ何もしてないのに!!!(当たり前である)

動揺する私の背後から、バスルームにいるチョーさんの素っ頓狂な声が聞こえてきた。

「なんやこれ、入ったらあかん部屋だったかなぁ?」

私はバスルームへ走る。なんと、そこには山ほどのシーツが丸めて床に置かれていた。シャワールームも、明らかに 誰かが使った形跡が残っている。乱れたベッド、びしょびしょに濡れたバスルーム、丸めれたシーツの山...。まるで、 メイドが主人の隙をうかがって情事をした後のような、この部屋の乱れようは一体...?

とりあえずハウスキーピングに電話をして、部屋の有様を伝える。電話を切るとすぐにフロントから電話がかかってきた。

「お部屋を交換しますので、フロントまでお越し下さい。」

へ、部屋がまだあるのか!?では、ツインの夢も再び...!?

しかし、無情にもフロントのオヤジは言い放った。

「ただいま、ダブルのお部屋しかご用意出来ないのです。」

ノォォォォォォー!!!
何故?何故、そこまで私達にダブルベッドを押しつけるのだーーーっ!?心の中で頭を抱えながら叫ぶ私なのであった。

新しく用意された部屋は乱れ一つなく整い、中央には、やはり大きなダブルベッドが鎮座していた。部屋の前には敷居が立ち、外の景色は見えない。急ごしらえで用意してもらったので、 まったくビューの期待できない地上階の部屋が割り当てられてしまったのだ。それだったらもうちょっと待って、さっきの部屋でもよかったなー。

「でも、あんなん見たら、誰かが使ってたみたいで気持ち悪いやろ。」

チョーさんは言う。チョーさんは、靴と靴下を脱ぎ、ベッドの右側に 大の字になった。こ、この左側のスペースは何...?

行き場のない私は、何も景色の見えない窓際に置いてある、ゆったりとしたソファに腰を下ろした。チョーさんの持ってきたガイドブックを見ながら、明日はどこへ行こうかな、とページをめくる。部屋の中は、耳鳴りが聞こえるくらい静かだ。ああ、...こ、この静けさを 打ち壊したい

「あ、明日はどこへ行きましょうか。今夜の食事は何を食べましょうか。」

しばらく待っても返事がこない。ベッドを見ると、チョーさんはすっかり眠りこけていた。

*****************************

どれくらい時が経ったであろうか。何時の間にか、私まで転寝をしてしまった。目を覚ますと、部屋の中が暗かった。カーテンを閉めて、部屋の電気を点けるとチョーさんも目を覚ました。

「よし!飯を食いに行くかーーー!」

人格が変わったかのようにチョーさんが機敏に跳ね起きる。昼間はあれだけ無口で動きも緩慢だった彼だが、夜になって俄然元気になるとは、やはり私は今夜の自分を心配しなければならないのだろう。ベビーフェイスのわりに、チョーさんは 夜の帝王なのかもしれない。

私の心配など知る由もなく、チョーさんはさくさくと靴下を履き、タバコに火を点けると、大きく伸びをした。

「腹減ったなぁ!イタ飯が食いたい!」

イタ飯かー。言っておくが、アメリカ人の食するイタリアンはほんとに美味しくない。にゅー麺のように柔らかいスパゲティと味のないクリームソース、あるいはミートボールのソースが定番である。

「高級レストランに行こうよ。お金はいくらかかってもいいから。金なら出すから。いくらでもあるから。」

金ならいくらでもだす...。つまりそれは、金ならいくらでも出すから今夜はこのベッドの上で踊ってもらうぜ って意味なのかーーー!?

チョーさんはほんとにいい人そうなのだが、私の心は疑心暗鬼に取り憑かれていた。

ホテルの人に、この辺りの特別高級で美味しいイタリアンレストランの場所を聞いて、私達はそこへ向かった。

勝負は食事の後に控えていた...。

(つづく)



6日 どうしたらいいというの
 
聞くところによれば、チョーさんは30代前半という若さでありながら、年収はン千万円だという。若いうちからそんなにお金を持っちゃって、ろくなことにならないよ...。老婆心ながら私はそう思うのであった。

翌朝、Aさんのお願いで、チョーさんを近所のスーパーマーケットに連れて行くことになった。なんでも、旅行のための歯ブラシや歯磨き粉が欲しいのだとか。

スーパーマーケットは、午前中だというのに人が多かった。アメリカ人は早起きだ。いいや、 年寄りが早起きなのか。まぁよい。私は、チョーさんを歯ブラシ売り場まで案内した。私は、気まずい雰囲気にならないよう自分が空回りするのを自重したため、 かえって無口になってしまっていた。そんな中、チョーさんが口を開いた。

「昨日、タオルを買うたんですわ。そしたら、それが一枚20ドルもしたんですわ。」
(↑関西弁に不慣れなため、間違っているかもしれません...)

ほほぅ。でも、お金持ちなんだから、20ドルだって200ドルだって、別にどうってことないんじゃないの?

「5日間の滞在やろー。一日4ドルもするタオルなのか...。」

ん?私の心の中で、警戒がほどけてくる音がした。続けてチョーさんが言う。

「む!この歯磨き粉は高い!こっちの安い方で十分や。家に帰ったら歯磨き粉なんてあるんやし...。」

チョーさんは独り言をつぶやいていた。なーんだ、チョーさんって、ちゃんと 物の価値がわかる人だったんだ。お金をたくさん持っているからといって、無駄遣いをしていいってことはない。その品物にふさわしい分のお金を払えばいいのだ。いっぱいお金を持っていると、そんな簡単なことすら見えなくなってしまう人がいるけれど、チョーさんは物の価値をきちんと判断できる人だった。よかった! 普通の人だ!

朝のお買い物はすっかり済んだ。あとは、各自旅支度を整えて、サンディエゴ(San Diego)に出発するだけだ。

部屋に戻って、私はルートをチェックした。サンディエゴに行ったら、何を見ようかな。ちょっと有名な動物園があるって話だけど、いい歳した男の人を連れていくにはちょっとなぁ。私としては、サンディエゴからメキシコへ行ったほうが、はるかにエキサイティングな旅になるのだが...。

旅の支度を整えて、チョーさんを迎えに行く。チョーさんは、黒くてダサい旅行バックを肩から下げ、

「よろしくお願いします。」

と、短く挨拶をした。

Aさんに見送られ、私達はアーバインを後にして南へ向かった。砂漠地帯に建てられた高級住宅地を遠目に、高速道路がまっすぐ伸びている。

しばらく走っていくうちに、ぼそり、ぼそりとチョーさんが口を開いた。

「仕事は何をしてはったんですか?」

「学生時代は何してはったんですか?」

「本はどんなの読むんですか?」

間違っても、「君のスリーサイズはいくつかな。」なんていう合コンまがいの質問はされなかった。しかし、スリーサイズを聞かれた方がむしろ気楽に話せたかもしれない。私は人見知りをしない人間だが、真面目な質問には、真面目に答えてしまう性分なのだ。

私も、チョーさんの仕事について2,3質問をする。難し過ぎて私には理解できないものだったが、どうやらものすごくやり甲斐のある仕事をしているらしい。金融系の仕事については、まったく知識のない私だ。 会話は途切れがちになった

こ、これでは、カチコチのお見合いカップルじゃないかーーー。

L.A.からサンディエゴまでは2時間ほどの道のりだ。無言で私が空回りしているうちに、早くもサンディエゴに到着してしまった。

サンディエゴの街並みは、ニュージーランドの首都、ウェリントンを思い出させた。ここはもっと暖かいところだけど。オープンカフェでカプチーノを飲む人、サングラス姿のお姉さん、日焼けした若者と、たくさんのヒスパニック系の人々。常夏の街、サンディエゴだ。

道路には、あちこちにトロリーバスの線路が敷かれていた。街をぐるぐる回って、ようやく路上に停車するスペースを見つけた。さて、今いる地点をチェックして、今夜の宿を決めなくちゃ...。しかし、どうやって宿のことを切り出そう。チョーさんはどんなところに泊まりたいのかな。ものすごく高級なところだったら私、 ほんとにお金がなくなっちゃう。いくらお金持ちとは言え、宿代を払ってもらうなど、めっそうもなかった。それでは「 今夜はあなたにおまかせよ」状態である。かといって、ユースホステルに泊まらせるわけにもいかない。うーむ、どうしたものか...。

ふと、助手席を見ると、チョーさんが丹念にガイドブックをチェックしていた。ホテルのページを開いている。

「今夜はどこに泊まりたいですか?」

恐る恐る聞いてみる。

「そうやなぁ...どこがいい?決めて。」

ガイドブックをつき渡される。え?私が決めるの〜?この、いかにも「観光客が泊まるホテル」って感じのリストから、 この貧乏くさい私が選ばなくちゃいけないの〜?私は、素早くホテルの部屋代をチェックし、ほどほどに安い部屋を指差した。

「うーん、ここ?もっといいところに泊まろうよ。ほら、こことかこことか、どう?」

チョーさんが指差すものは、どれも目が飛び出るような金額のホテルだ。...これを割り勘するとなると、頭がくらくらしてしまう。

「部屋代のことだったら心配いらへんよ。ここまで付き合ってもろうとるんやし、任せといて!」

察したかのようにチョーさんが胸を叩く。えー...ほんとにいいの?でもまー、 別にせまられてるわけじゃないし、私はちょっと考え過ぎなのかもしれないな。よし、ここは一発、チョーさんの泊まりたいホテルにババーンと泊まって、くつろいでもらおうじゃないか。

チョーさんは、ぺらぺらとガイドブックをめくり、そして、ついに「ここがいい!絶対にここがいい!」と、あるホテルの写真を指差した。...リストの中で、一番高級ホテルとされているホテルだ。

「せっかく来たんやし、豪華なホテルに泊まりたい!

チョーさんはウキウキと顔を輝かせ、私にホテルまでの地図を差し出した。ここからそう遠くはない。

そう遠くはないのにも関わらず、迷いながらホテルに到着した。駐車場は馬鹿でかく、ようやく駐車場の出口に来たとしても、ロビーはこの先の丘の上にあるという有様だ。広くて古い、良質のホテル。うーん、ほんとにいいのかなぁ?

薄ぐらいロビーに入る。天井には豪華なシャンデリアが輝いている。その下で、礼儀正しいドアマンやベルボーイが泊り客のスーツケースを片手に静々と行き交う。私はその間を縫うように歩き、フロントを目指した。

「今夜、2名で宿泊したいのですが。」

「承知致しました。ツインですか?ダブルですか?

むっ。(心の声:そこが問題なのだよ、ちみ。気持ちとしてはシングル二つなんだけどね、そうするとほんとに私の部屋代を彼に払わせることになるのだよ。自分で払うほどの経済力もないし。そうなると、彼の部屋に私が泊まるって形にしたほうが、部屋代を出してもらう方としても気分が楽になるんだなー。うーむ。よし、こうしよう)

「ツインでお願いします。」

(心の声:こうするべきなのだ。そうだ、これが正しい選択なのだ

承知致しましたと、愛想のよい女性のフロントが、カチカチとコンピュータを叩き、空室状況を調べてくれる。

「あいにくお客様、今夜はカンファレンスがあるため非常に込み合っております。 ダブルのお部屋でしたらご用意できるのですが...。」

え゙っ!?ダブル!?困るよ困るよ困るよーーー。それしかないのーーー???シングルを二つでもいいんだよ。

「申し訳ございません。こちらのお部屋、一つしか空いておりません 。」

なんの運命の悪戯だろうか。チョーさんが指定したホテルに、たった一つ空いていた部屋。その部屋が、なぜダブルベッドの置かれた部屋なのか。一体、 何を暗示しているというのだ。ここまできて、またもや"ザ・貞操の危機アメリカ編" NZでも貞操の危機がありましたを心配しなくてはならないのか。私はチョーさんを振り返った。どうしよう!

「なんや、部屋がないんか。え?ダブル?えーやん。ダブルにしときー。」

ははは、はい...。(心の声:いいの!?ねぇ、いいの!?知らないよっ!知らないよっ!!!)

「ただいま清掃中ですので、2時間ほど経ってからお部屋へお入りください。」

フロント嬢は私の心の叫びなど露知らず、にっこりと笑ってルームキーを差し出した。

引きつった笑顔で、私はそのキーを受け取るのであった...。

(つづく)



5日 ナーバスな夜
 
部屋には、私、先輩、C君の3人が、まんじりとなく時を過ごしていた。もう夜更けも近い。30代後半の男性Bさんは、未だに大学の図書館で勉強中だ。恐らく朝まで勉強するつもりなのだろう。

私は密かにドキドキしていた。今夜、もしかしたら一緒に旅行に行くことになるかもしれない男性と対面することになっているからだ。Aさんの言葉が頭の中でこだまする。

「彼さ、大金持ちなんだよ。仕事が忙しくってお金を使う暇がないの。しかも、ルックスもいいもんだからモテモテで、 女には不自由しない生活をしてたわけよ。だから、そのへんの煩悩はもうないの。もうそういう遊びは飽きた って言ってるからね。紳士だよ、紳士。」

そ、そんなすごい人と、もしかしたら一緒に旅行に行かなくちゃいけないのかー。なんだかこっぱずかしいなぁ。いや、私はお金持ちとかルックスがいいとか、そんなことでは心を動かされたりしないんだ。まずは、 人間性だよ。それなしで男を語ることは出来ないね。って、なんかこう言うと期待しまくってるっていうか、下心がありすぎっていうか、男と女の旅行っていうか、んんんーーー、いや!別にそういうつもりはないんだから。 堂々とかまえていなさいよ、堂々と。でも、もしその人がものすごくかっこよかったら...。いや、別にそういうつもりはないんだから 。(以降、同じ気持ちが繰り返される)

Aさんは、今朝の飛行機でロスに到着した彼と落ち合い、ユニバーサルスタジオへ遊びに行っているはずなのだ。男二人で遊びに行くのも味気ないということで、それには日本人の女の子二人も同行することになっていた。

いくら夜の長いロサンジェルスとはいえ、そろそろアーバインに帰ってくることであろう。もしかしたら、女の子も一緒に部屋まで遊びに来るかもしれない。そうしたら、思いがけなく楽しい宴会が始まるだろう。そして、ほろ酔いの女の子たちは帰る気をなくし、ここへ泊まっていくことになるかもしれない。そしたら、翌朝はC君が彼女たちを送り、ありがとう、今度電話かけて、なんて電話番号を教えてくれるかもしれない。そしたら、そしたら...。そんな淡い期待を抱いていた C君も、密かに胸をドキドキさせていた───。

ドンドンドン!

き、来たっ!!

「いやー、どーもどーも。道が混んでてねぇ。」

長身のAさんが部屋に入ってきた。その後に、スラリとした同じく長身の男性が戸惑った表情を浮かべてAさんの後をついてきた。

「Aさん、女の子達は!?」

C君が、まさか...という顔で問いかける。

「あ、女の子たちはね。帰ったよ。家まで送っていった。」

C君は、そのままバタンと床へ倒れてしまった。ご臨終だ。かわいそうに。

「あ、それで、こちらが僕の友人の、チョーさんです。」

Aさんの後ろから、高い背を縮ませるように立っていた男性が、ちょこんと頭を下げた。先輩が座るように勧めると、恐縮したような仕草を見せつつ、腰を下ろした。

チョーさんは、背の高い逆三角形の肩が頼もしい男性だった。丸顔で、どちらかというと小さめ。切れ長の目に筋の通った鼻。しっかりした顎。総体的には...可もなく不可もなくか?...いや、どちらかと言えば可、だろう...いや...ギリギリ良の域に入るかもしれない。いや、ギリギリじゃないだろう。 けっこう余裕で良なんじゃないかな。ん?待て待て待て待て。チョーさんは眼鏡をかけているではないか。インテリに見えなくはない。いや、出身大学や職業から見れば、十分にインテリなんだろう。いや、インテリだ。 ...どうしよう。(私の弱点は、インテリの男性である)

女とは、愚かな動物である。
高飛車に構えていたのに、相手が素敵な人だと判断されるやいなや、自分の容姿がそれに見合わないことに羞恥心を覚える のである。あ、これは別に男女に関係ないか。ああ、こんなことならもっと痩せておけばよかった。いや、痩せても顔は変えられない。背が低いくせに顔が大きいし...。こんな私と旅行に行くことになると知ったら、チョーさんは超ガッカリに違いない。もっとかわいい人と一緒にいった方がチョーさんのためだ。そうだ、 私は身を引こう。そうだ、それが一番いい。

「彼女がね、nonさんと言って、このほどアメリカを一周してきたんだよ。車を持ってるんでね、君をどこにでも連れていってくれることになってるから。」

それを聞いたチョーさんが、私に向かって丁寧におじきをする。よろしくお願いいたします...というところだろうか。

「ほんとに私となんかでいいんですか?私は出かけるのは好きだからいいんだけど、ほんとに私なんかでいいんですか? もっとかわいい子と一緒に行った方がいいんじゃないですか?

という私の言葉に、チョーさんは口をO字にして手を左右に振った。"とんでもない"という意味なのだろう。それにしても、無口な人だ。

「いや、気にしなくていいよ、nonさん。じゅうぶんかわいいって(と言いながら、目は私を見ていない。くそぅ!) 。それに、nonさんは車を持ってる上に自由に動けるしね。(そこか!私を選んだ理由はそこなんだろう!くそぅ!)

私は複雑な気持ちだった。いろんな意味で。

聞けば、チョーさんはサンディエゴに行きたいという。うーむ。私もサンディエゴにはまだ行ってないし、行ってみたい。

「頼むよ、nonさん。こいつ、金だけは持ってるからさ。ぜーんぶ奢ってもらえるんだしさ。」

金のことはどうでもいいんだ、金のことは。ただ私が心配なのは、二人の間に流れる気まずい雰囲気と、場を盛り上げようと 空回りする自分なんだよ。

と思いつつも、結局は好奇心とサンディエゴに負けてしまう私なのであった。

まぁ、これも何かの運命だろう。私が見知らぬ男性と旅行に出かけるのも、その男性が在日の韓国人なのも、インテリなのも。もしかしたら、私は彼から何か影響を受けるかもしれないし、彼も私から影響を受けるかもしれない。そしてその影響は、いつかどこかの点と結びつき、線になることがあるかもしれない。

そう考えたら、すっと肩の力が抜けた。

そうだ。私は私だ。私は私のペースで今まで人と接してきたんじゃないか。何をドキドキすることがあるんだろう。確かに、私はチョーさんのことを全然知らないから、どんなことを話したらいいのかもわからないけれど、結局どうにかなるだろう。そうだ、きっとどうにかなるよ。 いつもどうにかなってきたんだもの

私は、チョーさんにニッと笑ってみせた。
すると、チョーさんも笑って返してくれた。

それで十分だった。微笑めば微笑み返す。それならば、きっと悪い人じゃない。

そして私達は、3日後にサンディエゴに旅立つこととなったのだった。

(つづく)



3日 一流企業戦士@MBA留学生.com!
 
ずっと、自炊することなく旅を続けていると、本当に食べる物がワンパターンになってくる。中華・中華・ハンバーガー・中華・ハンバーガー。こんなパターンで食事が繰り返される。例え自炊出来たとしても、私は和食のレシピを知らない。そう、だから私は和食の味を忘れかけていた。

昨晩、会社の先輩(男)が、夕飯を作って私のアメリカ大陸一巡りを祝ってくれた。メニューは、里芋とイカの煮物、カボチャと鶏肉の煮物、味噌汁、そして梅干とご飯だった。煮物など、私は 自分で作ったことがない。だいたいアメリカで定着した、日本の味の定番である照り焼きソースっていうのは どうやって作るんだ?そもそも、和食というのは甘口が多いから、甘い味の嫌いな私はその味を食べなれていない。正月の御節料理なぞ、私にとっては 地獄の苦しみでしかないのだ。

先輩の作ってくれた和食は、目が飛び出るほどの上出来な美味しさだった。甘くもなく、辛くもない。白いご飯にぴったしだった。お米といえばお粥にしていた私である。炊飯器で炊かれたご飯は格別な美味しさだった。梅干は私の大好物で、日本に帰るまで絶対に食べることは出来ないだろうと思っていた。味噌汁なんかもう絶品で、お味噌汁がこんなに美味しいなんて知りませんでしたって思わず口走ってしまったくらいだ。

そもそも私は、味噌汁の作り方をちゃんとは知らない。なんとなく、湯の中に味噌を溶かすと味噌汁になることくらいはわかっている。出汁のとり方も知っている。けれど、私が作ると味噌汁は美味しくない。料理というには憚れるほどの単純な料理なのに、まったく情けないことである。

9時間かけて、サンフランシスコからアーバイン(Irvine)までやってきた甲斐があった。とにかく、先輩の料理は美味しかった。というより、長いこと運転してきてやれやれと思ったところに、 温かい食事が待っていたということが、私には心底嬉しく感じられた。長いこと、温かい食事が私を待っていることはなかった。嬉しかった。

昨晩のもてなしを噛みしめながら、私は今日一日をのんびり過ごそうと、思いきり寝坊をした。先輩は、とっくに大学の研究室へ出かけてしまっていた。ベランダへ出ると、アーバインの乾いた陽だまりが眩しかった。11月だというのに、半そでで生活しても寒くないんだもんなぁ。つくづく感心しちゃうよ。

歯を磨きながら、空を仰ぐ。
前にここへ来た時と、なんら変わっていない。無機質な白い集合アパートと乾いたアスファルト。ほんとに何も変わっていない。

手早くシャワーを浴びて、こざっぱりする。コーヒーをカップに3杯分くらい作ると、私はPCに電源を入れた。あー、のんびりー。読書でもしちゃおうかな。よーし、メールを書こう。うーん、そろそろもう一回読書しようかな。

こんなことを数時間繰り返していた時だった───。

ドンドンドン!

来た!

鍵を開ける。

「あ、やっぱり来てたの。車があるからひょっとしてって思ってさ。」

一流企業戦士でありながら廃人のような人達 、Aさん、Bさん、C君が部屋に入ってきた。つくづくニュースに敏感な人達である。Aさんは相変わらず、ゴルフのスウィングに余念がないようだ。Bさんは心なしが疲れている。C君は日焼けしていた。

動作は緩慢、無目的な来訪、すぐ床に寝転ぶ等、数ヶ月前とその言動に違いはないように見えた。しかし、 何かが違うのだ。何かが。数ヶ月前の彼らは、魂の抜けたこんにゃくだった。今、私の目の前で、「コーヒーがいいです〜。ミルク入れてください〜。」などと言っている彼らは、まるで 魂が蘇ったこんにゃくのようなのだ。そんな彼らに、最近の調子を尋ねてみる。

「もう、すごい忙しいよ。一日中勉強してないとついていけない んだもん。ここにもほとんど遊びに来てなかったんだよ。今日はたまたま車を見たから寄っただけ。またすぐ大学に戻るよ。」

やはり、MBAの学生は、寝る間もない忙しさなのだ。私がいた頃は、まだ入学したてだったから時間的にも心理的にもゆとりがありすぎたんだろうなぁ。

ことに、一番の年長者であるBさん(お洒落な30代後半男性。前髪が立っている)などは、ほとんどアパートにも戻らないで毎晩徹夜で勉強をしている有様だという。アメリカ育ちのC君(帰国子女のサーファー。一番若い)は、言語的余裕があるので英語の出来ない学生に比べるとまだストレスは少ないであろう。当初から遠い眼差しをしがちだったAさん(T大出身でありながら野球部でもあった、文武両道の30代前半男性。でも英語アレルギー)は、ゴルフのスウィングをしながら「スタバで勉強しましょう」と勉強のことばかり口にしている。

変われば変わるものだ。いや、これが本来の彼らの姿なのだ。「部屋でだらだらしましょー」などと言っていた彼らの姿など、暑さの見せた幻でしかなかったのだ。 腐っても一流企業戦士。いや、腐っちゃいないが、立派にMBA取得を目指して日夜がんばっているのですね!

C君が、何か言いたげにこちらを向いた。この青年は、若い上にサーフィンまでやりこなし、帰国子女であるが故に英語にも堪能で、おまけにMBA取得を目指すほどの賢さに加え、なかなかのいい男なのだ。将来有望。私の従妹と結婚しませんか。その彼が口を開いた。

「あの...なんか飯ありますか...?」

やっぱ変わってねー!
そういえば私もお腹が空いた。先輩は、とても気前がいい人ので「なんでも食べていいよ」と言ってくれていた。私は冷蔵庫の中にある、手短な食材で簡単な料理を作ることにした。

牛ひき肉と玉ねぎと残り物のご飯。さて、どうしたものか。お、冷蔵庫にノンオイル和風ドレッシングがあるじゃん。これを使おう。

私は、玉ねぎを炒め、ひき肉を炒め、その間にご飯を丼に盛り、玉ねぎとひき肉がよく炒まったところで、ノンオイル和風ドレッシングで味付けをした。すると、あ〜ら不思議。 いきなり和風味になっちゃうんだもんねー。そいつを丼のご飯の上にかけて、出来あがり。

「うまいッス!」

ほんとに美味しかったかどうかは知らないが、C君は私が調理にかけた半分の時間ですべてを平らげた。実験的に作った料理だったが、なかなかイケてるし、今後はマイレシピ帳に追加しておこう。

ほどなく、彼らが帰り支度を始めた。食って帰る。これが彼らの基本的な行動パターンだ。いや、本当に勉強が忙し過ぎて、ほとんど毎日ろくな食事もしていないのだろう。これから、彼らは再び猛勉強をしに出かけるのだ。いってらっしゃい。がんばってね。

「あ、それはそうと...。nonさん、ガイジンと一緒に旅行 に出かけません?ちょっと相手してやってほしいんだけど。」

Aさんがふと思い出したように、振り返った。
え?え?旅行?ガイジンかどうかは問題ではないが...旅行なの?日帰りじゃだめなの?男の人でしょう?

「そうそう、男の人。僕の会社の同僚だった人でね。もう会社は辞めちゃってるんだけど、今でも付き合いがあってさ。もうすぐ僕に会いに遊びに来るだよ。僕は勉強が忙しいから、 nonさん相手してやってよ。女の子の方が本人も嬉しいだろうしさ。あ、言葉は大丈夫だよ。日本語べらべらだし。っていうか、日本に住んでるんだけどね。在日韓国人なの。」

ガイジンでもいいし、韓国人でも在日の人でも、なんでもいいよー。だけど、男の人なんでしょう?

「彼はそういう煩悩はない人だから大丈夫だよ。じゃあ、よろしねー。」

頼むだけ頼んで、Aさんは出て行った。

果たして、私は本当に男の人と二人で旅行に行かねばならないのだろうか。
いきなり、自分を見つめ直すどころではなくなってしまった私なのであった。

(つづく)



2日 振り返るための準備
 
ビクターからもらったオンボロのカリフォルニアの地図を助手席に広げていた。もうすぐ、ビクターが教えてくれた、" ニンニクの匂いのする道"に差し掛かかるはずだ。

「ニンニクのびん詰工場があるんだ。ニンニクの匂いがぷんぷんするよ。」

出発前、地図を広げてアーバインまでの道順を説明してくれた時、ビクターはある町の場所を指で叩いてそう言ったのだ。私は鼻の穴を広げて、万が一ニンニクの匂いが漂ったとしても、 一分の遅れもなく嗅ぎ取れるよう準備した。私はニンニクが大好きだ。ニンニクの匂いが大好きだ。だから、ニンニクの匂いがしてきたら、たくさんその匂いを嗅いで、幸せな気分に浸るつもりでいた。ニンニクは幸せの食べ物だ。ヘタクソな料理でも、ニンニクの風味を利かせるだけで 一流料理に変身だ。ああ、早くニンニクの匂いのゾーンに入らないかな。

辺りは野菜畑の広がる田舎町だった。右手の、背の低い生垣の向こうに広がるのは、赤土に植えられたアーティチョークだろうか。そして、左手には大きな灰色の建物が見えた。あれがもしかしたらニンニクの工場かもしれない。よし、そろそろだぞ。私は鼻の穴を広げた。来るぞ...来る...来る......来る.............? あれ?

灰色の建物を過ぎてしまった。あれー!?おかしいなぁ。道を間違えたかなぁ?しまったなぁ。

などと思った矢先のことだった。
プゥーーーーンと匂う、異臭。今までとは違う空気。脳が、それはニンニクの匂いだよ、と察するまでに少し時間がかかった。うおっ!これはものすごくいい匂い!ニンニクの匂いだーーー!!!やったーーー!!!鼻の穴を広げてたくさん空気を吸った。あー、いい匂いだなぁ。こんな匂いの元で働けるなんて幸せだろうなぁ。

そういえば、私の祖母は看護婦だったのだが、彼女が看護婦を目指した理由というのが、幼少の頃に訪れた病院の クレゾールの匂いに憧れたからだとか。それを言ったら、私は小さな頃に嗅いだ、銀行の匂い が忘れられない。銀行の匂いとは、なんであんなに魅力的な匂いだったのだろうか。小さな頃は、一瞬だけ「銀行員になろう」と思ったことがあったっけ。今ではちっともいい匂いに感じないんだけどなぁ。一体あれはなんの匂いだったのだろう。

ニンニクの匂いが薄れるころ、道路はクランクに右に曲がり、一本の長い細い道となった。しばらく走ると、道端にちょっと大きめの商店があるのが目に入った。よし、ここで新鮮なニンニクでも手に入れようかね。

私はハンドルを右に切り、砂利の敷かれた駐車場へそろそろと入っていった。古い薄板で建てられた商店に扉はなく、とても開放的だ。ところ狭しとニンニクがぶら下がり、山積みにもなり、大きなものから小さなものまで様々なニンニクが売られている。くーっ!いいねぇー!他にも、調味料やドライフルーツ等、いろいろな食材が売られている。

私は小ぶりのニンニクがたくさん詰まった袋を手にして、レジへ向かった。レジには若いNative Americanの青年が立っていた。代金に税金がつけられないところを見ると、もしかしたらこの辺りはNative Americanの居住区なのかもしれない。そして、お釣りを手にして立ち去ろうとした時だった。

「ヘイ...。サンフランシスコから来たのかい?」

静かな口調で尋ねられる。
うん。今日、サンフランシスコを出発して、ロスより向こうのアーバインという街へ向かうところなの。

「そうか...。素敵な首飾りを下げているね。少しよく見せてくれるかい?」

私はとたんに嬉しくなった。実は、私はここ数年ずっと同じ首飾りをつけていた。それは、皮製の紐に、ちょっと大きめの水晶とタイガーズアイ、アメジスト、ラピスラズリなどの石を飾りにし、 羽を象った銀製のチャームをつけたものである。数年前、私がずいぶん落ち込んだ時に、自分を勇気付けるために自分で手作りした首飾りだ。 いくじなしの自分にを入れるために

私は喜んで彼に首飾りを渡した。彼は、丹念にそれを眺めて、

「うん。よく出来ているね。ほんとにこれ、いいよ。この羽の意味を知ってるかい?" 勇気"って意味があるんだよ。僕達Native Americanのシンボルだ。」

と言った。もちろん、私はこの羽がNative Americanの民族的なシンボルとして扱われているのを知っていた。私は、彼らの自然との調和に対する知識に対して、本当に尊敬の念を抱いている。だから、私は落ち込んだ時に、このシンボルに救いを求めたのかもしれない。私はひとつひとつの宝石についての説明をした。

水晶には澄んだ眼(心の目)を、アメジストには愛を、ダイガーズアイには価値あるものの蓄積を、それぞれに願いを込めた、と。

なんだかとても嬉しかった。Native Americanの人に、改めて「羽は勇気の意味」と言われ、私の首飾りに息吹を吹き込んでくれたような気がした。年月をかけて、私の首飾りが完成した、という感じだ。今では気にも留めていなかった首飾りだというのに。

そうか。気にも留めないということは、求めていない、求める必要がなくなった、ということだろうか。そしてそこで、息吹を入れられ、首飾りが完成したというのか。もちろん、それらをすっかり得たというわけではないけれど。

「Good to you.」

そういって、彼は首飾りを返してくれた。
ありがとう。私はそう言葉を返して、店を去った。"ありがとう"...短い言葉だけど、本当に気持ちがこもる言葉だ。

さぁ、まだまだ先は長い。元気をもらった!もういっちょ、がんばって行くかーーー!

再びハンドルを握る。
 

5時間は走っただろうか。そろそろ休憩をしようと、マクドナルドで遅い昼食を取った。駐車場へ出ると、冷房で冷え切った体に、外の空気がなまぬるく感じた。

何気なく着ていたシャツが今は暑い。つい一ヶ月前、私は真冬の土地にいたのではなかったか?パロ・アルトだってもう涼しい秋の気配を漂わせていたというのに。私は着ていたチェックのシャツを脱ぎ、半そでのTシャツ姿になった。ああ、本当にアメリカって大きいな。一つの国で、春夏秋冬、 全部一揃いなんだもの。

私は今、ちょうどロスよりほんの少し北側にいる。
もうすこしがんばって走ると、アーバインに着く。今夜は、会社の先輩のお家がゴールだった。そう、 一流企業戦士 がひしめいている、あのアーバインだ。常夏のアーバイン。無機質なアパートの立ち並ぶ、あのアーバインだ。

私が今乗っている真っ赤なマーキュリー、ハニー3世と出会ったのもアーバインだった。本当の本当にぐるりと回ってきたんだなぁ。私はどこか変わったかな。成長したかな。元に戻るという行為は、 客観的に自分を省みずにはいられない

私は元の場所に戻る。もっと3D的に思考を捉える。そう、私は元に戻るがそれは元の場所ではない。まるで 螺旋階段を上がったかのように、私は同じ場所に立っていたとしても、空間的な位置が違う。そうでありたい。せめて、上段に上がっていたい。そのために、私は私の道を旅してきたのだから。

アーバインに着いたら、じっくり、ゆっくり自分を振り返ろう。何を得たのか。何を身につけたのか。前の私と今の私。首飾りを作った頃の私と、アーバインに着いた私はどれだけ違うことだろう。

同じ所に留まることも、私には旅の一部だ。そうして考えよう。じっくりと考えたい。
もう少し、もう少し私に旅をさせてください。

(つづく)



1日 旅は続く
 
空は薄いピンク色に染まっていた。そろそろ夜が来る。

私は迷っていた。そろそろサンフランシスコから旅立つにあたり、一つだけ、約束を果たしていなかったのだ。約束は、守らなければ約束にならない。約束を守るのだったら、今日が最後のチャンスだった。

「まだ数式が解けないんだよ。この数式を解くのにあと何日かかるかわからない上に、僕は急いでこの数式を解かなくちゃいけないんだから。それに、そのテリーって人は、そのお店に今日来ているとはかぎらないんだろう?nonを一人で行かせるのはあんまし気が進まないし...。」

ビクターはため息をついた。
そう。私は、サンフランシスコのあの寿司屋 へ行こうかどうかを迷っていたのだった。旅に出る前、私はそこで、テリーという名の写真家と出会った。彼は写真家として成功を収めていて、私は彼から、" 叶わない夢などない"ということを学んだのだ。

そのテリーとお別れする時、私達は約束したのだ。私が無事にサンフランシスコまで戻ってこれたら、あの寿司屋で再会しましょう、と。

「君がいつ戻ってきても心配することはないよ。僕は毎日あの店に通っているんだから。必ず無事な姿を見せてくれよ。」

テリーは私にそう言ったのだ。そして私も、その言葉に「はい」と答えたのだ。

決めた。私一人でも行こう。ビクターに迷惑をかけるわけにもいかないし。本当はいろいろとお世話になったお礼に、お寿司をご馳走してあげようかなって思ってたんだけどな。かえって迷惑になるんじゃ申し訳ないもの。

私を一人で行かせたくないビクターは、うーんと言って頭を抱えた。

「じゃあ、こうしようよ。今からその寿司屋へ電話をして、テリーという男性がお店にいたら、僕もお店に付き合うよ。いなかったら、nonもそこへ行くのを諦めよう。どうだい?」

わかった。じゃあそうするよ。
私は寿司屋のマスターからもらった名刺を取り出した。リュックの中に大事にとっておいたのだ。

時計を見る。
うーん、もう8時過ぎか。来ていたとしても、もうご飯を食べ終わって帰っちゃってるかもしれない時間だな。もしかしたら、撮影なんかが入っててお店には来てないかもしれないし。でも、縁があれば、必ず私は テリーと再会出来ると思うんだ。

番号をプッシュして、数回呼び出し音が鳴る。

「はい、『寿司萬』でーす。」

女性の明るい声が受話器に響いた。事情を話してマスターと代わってもらう。まるまる二ヶ月経ってしまってるけど、覚えててくれてるかなぁ?まず、名前は覚えてないだろうな。

「はいもしもーし。」

愛想のないマスターの声。
あ、あの、私、以前そちらでご飯を食べた...あ、アメリカを一周する前にそちらに寄って...そうそう、それでテリーって人と会ったんですけど...。

「あーあーあーあ!!覚えてるよ!アメリカ一周の子だろ!?テリーさん、いるよ!今来たんだよ!!」

なんだかやけにマスターが興奮している。テリーと電話を代わってもらった。

「やぁ、non、今サンフランシスコに来てるのかい?久しぶりだね。」

わー!テリー!来てたんだ。私、テリーが来てるかどうかわからなくて、とりあえずお店に電話してみたの。今私は、パロ・アルトにいるの。今からそちらに行ってもいい?

「いいよ。今来たばかりなんだ。パロ・アルトからだと45分はかかるかな。待ってるよ。」

落ち着いたテリーの紳士らしい声が優しげだった。テリーの後、再びマスターが電話口に出た。

「偶然だねぇ。テリーさんね、あなたと出会った後、ずっとお店に来なかったんだよ。それで久しぶりに今日、いらっしゃってくれたんだけどね。ほんと、たった今現れたんだよ。いやー、久しぶりですねぇって言って、ちょうどテリーさんがカウンターに座ったところに、あなたからの電話が来たんだよ。偶然だねぇ。今から来るんだろ?お待ちしてますよ。じゃー。」

口早に話して、マスターは電話を切った。
さぁー!何がなんでも絶対に行かなくちゃ!こんな偶然、滅多にないよ!私一人でも絶対に行く!

「わかったよ、non。ちょっと支度するから待ってて。」

ビクターは「やれやれ...」と言いながら着替え始めた。ごめんね、ビクター。なんだか結局迷惑をかけることになっちゃったね。ビクターは「何、これでやりたくもない数学をやらなくてすむよ」と言って、肩をすくめた。ありがとう、ビクター。

9時半近く、私達はサンフランシスコの寿司萬に到着した。
恐る恐る店内に入る。テリーは待っていてくれたかな...。

「いらっしゃいませーーー!!!」

マスターの元気のいい声が店内に響いた。
カウンターに座る男性がこちらを振り返る。テリーだ。

「やぁ、non、無事に帰ってきたんだね。さぁ、座って。」

テリーは隣の席を私達に勧めてくれた。私はビクターにテリーとマスターを紹介し、彼らにビクターを紹介した。

「マスターから聞いたかい?僕は君と出会ってから今日まで、一度もこの店に来てなかったんだよ。まる2ヶ月間ね。それが、今日になって急に行きたくなったんだ。」

「そうそう!テリーさんがずっと来ないんで、病気にでもなっちゃったのかなぁって心配してたんだよ。そしたら、今日来て下さってね。そしたら、あなたから連絡が入っただろ?もうびっくりだよ。打ち合わせナシでしょ?すごいねぇ。偶然ってあるもんなんだねぇ!」

テリーもマスターも、本当にこの偶然に驚いている様子だった。
私は、この偶然が嬉しかった。出発する前にいろいろとテリーから教わったんだ。今度は、私がテリーに今まで経験したことを報告する番だ。まずは、テリーに勧められたモンタナにも行ったってことを話さなくちゃ。他にもいろいろと話すことがあるよ。

私は旅の経路や旅先で見た景色、経験したこと、思ったことなどをテリーに伝えた。

「一度も危険な目に合わなかったなんて奇跡だね。僕のあげたサバイバルナイフが役立つことがなくて、本当によかったよ。」

と言って、再会のお祝いに、とテリーは私達に牛刺しのおつまみとビールをご馳走してくれた。

「僕はね、あれからまた、大リーグの公式カレンダーの撮影を頼まれたんだ。実際に、野球選手を僕のスタジオに招いたんだよ。」

テリーは嬉しそうに言った。この人は、ずっと成功し続けてるんだ。すごいな。ずっと、 夢の中を駈け抜けてるんだ。幸せだろうな。毎日が充実しているだろうな。

「どうだい?お友達と一緒に、また僕のスタジオまで来ないかい?」

行く!前に行った時とは違う目で、あのスタジオを眺めることが出来るだろうから。ね、ビクター、行くでしょう?ビクターはにっこりと黙って頷くだけだ。その目は あまり笑っていない。そういえば、さっきからビクターは静かだった。テリーへの態度を見る限り、どうやら、この成功した写真家を鼻持ちならないやつと思っているようだ。ビクターも、夢に向かって努力をしている。海洋生物学の単位をもらったら、将来、子供達に生物学の楽しさを教えるつもりなのだという。成功に向かって努力している人間が、既に成功を収めてしまった人間に 嫉妬をしているのだろうか。それとも、もともと芸術畑にいたビクターは、まだ私の知らない写真家の本性を知っているのかな。

みんなで寿司萬を出た。お会計の時、マスターは、良心的な金額としか思えない料金を請求してきた。旅人には、たいへんにありがたいことだ。サンフランシスコに来たときには、また来るからね、マスター!ありがとう!

「毎度ー!」

マスターの声を背に、私達はテリーのスタジオへと向かった。テリーのスタジオは、寿司萬から車で10分ほどのところにある。

裏寂れた入り口から入る、古いビル。長い階段を上がると、外からは想像できない異空間が広がる。キッチンの流しの一部に撮影用の光りがあてられ、釣り道具の部品の周りは、まるで河原の一部をポンと切り取ってきたかのようだ。大きな空間に点在する、 人工的な別世界

「こっちへおいで。」

テリーに案内されて、脚立をよじのぼる。埃くさい暗がりが目の前に広がった。テリーが電気をつける。

そこは、スタジオの天井裏だった。秘密めいた、だだっぴろい空間の隅に、白い壁が天井から吊るされるように立っていた。床には、古びたバッドが転がっていた。

「ここでね、大リーグの選手がバッドを持って、フォームを決めたんだよ。僕はその姿を撮影したんだ。」

テリーは嬉しそうにバッドを持って、フォームを決めた。前回までのカレンダーは、選手の大事にしていた道具は写っていても、選手本人が写っていることはなかったもんね。本物の選手を自分のスタジオに招いて、また一歩、この人は 自分の夢を極めたんだ。

天井裏の電気を消す時、テリーはこう言った。

「今度、このビルを手放すんだ。」

え?なんで?その後どうするの!?

「別のビルに移るんだよ。このビルを売るんだ。ビルを買ってまた売る。そしてまた別のビルを買ってまた売るんだ。そうして、お金を作っていくんだよ。」

なんで?撮影で成功しているのに、なんでもっとお金を作るの?

「生活のためさ。いい不動産を見つけて、それを買うだろ。その不動産が値上がりしたらまた売るんだ。こうしてどんどん お金作りにハマっていくんだよ。...疲れるね。」

テリーは笑った。
テリーは、夢は叶えられたし、写真家として成功もしている。それでも、生活を維持するための、保険のようなもの にすがっているんだ。いつ、落ちぶれ写真家になってもいいように。

夢が叶っても、お金がなくちゃ生活出来ないってことなのかなぁ。それとも、夢が叶うことと、生活していくことは別なんだってことなのかなぁ。私はいつも思ってるよ。夢が叶うことや成功することは、必ずしもお金と直結はしないって。お金は、成功の副産物でしかない。まず最初に成功から得るものは、充足感や達成感であるべきだ。でも、それと生活していくことは、また別の問題なのかな...。

テリーは、今度は更に上に上がって、外へ通じるドアを開けた。外の、涼しい風が頬をくすぐった。このビルの屋根の上に出るドアだ。

ビルはそこそこに背が高かった。屋根の上からは、サンフランシスコ中心部のネオンが間近に見えた。摩天楼に点滅する赤色灯、夜更けになっても消えることのない窓の明かり。ここからは山は見えない。森も見えない。周囲は全部、ビル、ビル、ビル。まるでビルのジャングルだ。

「僕は、このサンフランシスコという都心を離れることが出来ないんだ。この生活を失うことは絶対に出来ない。だから、僕は生活するための仕事をしなくちゃいけない。ビルも買わなくちゃいけない。売らなくちゃいけない。このサンフランシスコの都会での生活が、 僕のすべてなんだ。何一つ欠けても生きていけない。」

成功を手に入れると、今度はそれを失うことを恐れなくてはならないのか。ならば、成功ってなんだろう。夢を叶えたら、今度はその夢が儚く消えることにおびえなくちゃいけないのか?ならば、 夢を叶えるとはどういう意味があるんだろう

夢は必ず叶えられると教わった人に、今度は、夢を叶える意味自体を問う、ということを教わってしまった。

アメリカを一周して、再び原点に戻った気分になった。

原点か...。ゴール地点とスタート地点は、結局表裏一体ってことなのかな。つまり、今、ゴールだと思っていた場所は、スタートする場所でもあるわけだ。

そうか。

ゴールは出発点。ならば、明日にでもここを出発しよう。そして、もう一度考えてみよう。自分の夢について。

(つづく)

<----  目次へ戻る

<----  TOPページへ戻る